人格とは何か
私たちがこの世に生まれてきて日々を生きているのはなぜなのか。
それを考えてみると、その与えられている時間を生かして、より大きな人間に成長し、より大きな仕事をなして、より多くの人たちを幸せにしていけるようになるためだと思います。
その中で磨かれていくのが「人格」というものです。
人格というのは「人間」の「格」と書きますけれども、一言で言うならば、その人の「人間性」であります。
それはどこから出てくるかというと、魂の部分から出ているのです。
肉体という衣服を通して表に出てくる魂の輝き、魂の光というものがその人をその人たらしめているものであります。
その人格、人間性というものが磨かれて、向上していくということは魂としての成長、進化そのものであると言っても良いのです。
では、優れた人格にはどのような特徴があり、どのようにすればそれらが身に付くのか。
また、どういった部分に人格の高さが表れるのか。
そのようなことについてお話してみたいと思います。
優れた人格の4つの特徴
直観力
優れた人格の持ち主にはいくつかの特徴があると思いますが、まず一つ目は「直観力」です。
この直観力の鋭さというものがあります。
頭で考えずとも瞬間的にパッと感じ取ることができる力ですね。
それは「インスピレーション」であり、「ひらめき」です。
天からの啓示のように瞬時にそれらを受け取れる力。
天才的な人を想像してみれば分かりやすいかもしまれせんが、そうでなくても、人格が向上すればするほど、このインスピレーションを受ける力というのが研ぎ澄まされてくるのです。
この直観力を高める上で大事なことは、心をきれいにしておくということです。
汚れた窓からは光が差し込みにくいように、汚れた心ではインスピレーションを受けにくいのです。
常に心をピカピカに掃除し、丸く光り輝いている状態を保つこと。
それは愛と調和に満ちた思いで心を満たし、それらに反する暗い思いを持つことがあったら反省して改めるということです。
それによってインスピレーションを受け取りやすい状態を維持することができます。
洞察力
優れた人格の特徴の二つ目は「洞察力」です。
洞察力とは人物や物事を見て、触れることで、その相手や物事の本質を見抜いていく力です。
洞察力が鋭い人というのは、たとえ断片的な情報であったとしても、それらをもとにパパッとパズルを嵌め込んでいくかのように全体像を掴むことができたりします。
それはつまり、ある事象の原因と結果のつながりをそのプロセスも含めて瞬時に理解する力とも言えます。
「一を聞いて十を知る」という言葉もありますが、仕事などでもたいした説明を受けずとも要点を押さえてしっかり最後までやり遂げて成果を上げるような人がいますよね。
また、長年接客業をしている人などは、お店に入ってきたお客さんを一瞬見ただけで、その人の人となりや仕事、役職、性格などが分かるとも言います。
そういう力というのもやはり洞察力なのであります。
この洞察力を高めるためには次の二つのことが必要です。
まず一つは知的な鍛錬です。
分かりやすく言えば、本を読むことですね。
読書によって知識が増え、思考力や論理力が養われます。
その積み重ねによって物事のつながりを見て取る力がついてきて、物事の本質まで押さえられるようになってきます。
もう一つは経験です。
当たり前と言えば当たり前かもしれませんが、やはり経験値の多さが洞察力においてもモノを言うのは間違いありません。
先ほどの接客業の例で言えば、新人とベテランではその洞察力においても大きな差が出てくるのは当然であります。
新人ではどれだけ時間をかけても見抜けないようなことも、ベテランの人であれば一瞬で相手のことを読み取ってしまうこともあります。
経験を積む中で、やはり蓄積されていく力というものがあるのです。
不動心
人格の高まりとともに見られる三つ目の特徴は「不動心」です。
不動心というのは揺れない心です。
それは折れない心と言っても良いと思います。
どんな困難や苦難が目の前にやって来ようとも、最後には必ず解決をつけていけるという揺るぎない心ですね。
そのような心の裏打ちとなるのは、やはり自らの成してきた実績に対する自信というものが根底にあると思います。
言ってみれば、それは成功体験というものです。
それが小さな成功体験であったとしても、そのために費やしてきた努力と精進、そしてそれに応じた成果をしっかりと出してきたという事実。
失敗したことがあっても、それらもすべて糧にしていけるような前向きな気持ちですね。
失敗しない人など一人もいないわけで、やはり人間はその過程において大きな学びを得て、磨かれて一段と強くなっていくものです。
そのようなことの繰り返しの中で、鉄が焼き入れによってさらに硬く強くなるように心が強くなり、ちょっとやそっとのことでは揺れなくなるわけです。
また、自信のほかにもう一つ根底となるものが「信仰心」です。
それは神に対する信頼です。
そして、天上界の高級霊と呼ばれる、神近き霊人たちへの信頼です。
信頼とは信じて、頼るということ。
地上側でやれるだけの最大限の努力をしたのであれば、あとは必ず神が、天上界が導き、道を開いてくれるということ。
それを信じ切る強い思いですね。
そのような信仰心があってこそ、不動心が極まってくるものだと思います。
柔軟性
そして、優れた人格の四つ目の特徴は「柔軟性」です。
または「寛容さ」とも言えます。
人格が高まり、向上し、人間としての完成に近づいていくにつれて確かな実績も積み上がり、指導力も増してくるわけです。
すると、その自らの経験や方法で結果を出し、成功してきた分、それらに固執してしまう気持ちが出てきます。
それはこだわりとも言えますが、それ以外のものは認めない、受け入れられないという気持ちですね。
つまり、心の柔軟性が失われてくるということです。
そうなってくると、自分または自分たちだけが絶対的に正しく、他のものや他の人たちは正しくない、間違っているという視野の狭い見方に縛られてしまうわけです。
そのような狭い心ではなく、十人いれば十人十色の魂の個性があるのです。
そして、それぞれの成長、進化の途上においては異なる道があるということを認めて、受け入れられる心の器を持てるかどうか。
その柔軟性がある人とない人とでは、やはり相対したときに受ける雰囲気が大人物(だいじんぶつ)と小人物(しょうじんぶつ)という差として感じられるのだと思います。
外見に表れる人格
目
人格がどのように表れるかと言うと、もちろんその人が語る話の内容や言葉、行いなどに大きく表れるわけですが、ある程度は外見に出てきます。
その中でも最も出やすいのが「目」です。
目というのは「心の窓」とも言われますが、その人の目に光が宿っているかどうか。
偉大な人というのは目に光があります。
それは天上界からの指導やインスピレーションを受けていたり、または本人の努力や精進などによって目から光を放つようになります。
天才的な人というのはやはり目に独特な力があるのです。
物事の真髄を見抜くような目です。
目に怪しげな、悪魔のような光を放っているようであれば問題がありますが、目に宿る光というものが人格の表れとして大きいのです。
健康状態、顔色
それから、健康的であるかどうかという点も一つの指標になります。
その人の健康状態ですね。
もちろんどんな人格者であっても風邪をひいたり、病気になったりするので、それだけですべてを判断できるわけではありません。
しかしながら、常に体調を崩しがちで病気ばかりしているという人はやはり心に何かしら問題があると言わざるを得ません。
健康状態というのは、特に顔色に表れると思います。
顔色の血色が良く、生き生きとした容貌をしているかどうか。
青白く、薄暗い影が差しているような顔色というのは、やはり心が光を発していない状態であります。
中には、会うと元気を奪われてしまうような、こちらの身体が重くなるような人もいますが、そのような人は悪霊や地獄霊に憑依されていることもあります。
なんとなく近寄りたくないような、薄気味悪いような人が中にはいますよね。
その受ける感覚というのは、やはり霊的な部分で感じ取っているものなのです。
風格
風格はその人が醸し出している雰囲気と言っても良いのですが、そこにも人格は表れてきます。
これは肉体的な大小というものを問わず、堂々とした姿です。
小柄な人であっても風格の漂っている人はいるのでありまして、凛とした強さですね。
風格というのは不動心と大きく関わっていると言えるかもしれませんが、ちょっとしたことでは倒れそうにない強さであり、その姿です。
鍛え上げられてきた精神力の強さであり、外圧をはね返していけるだけの揺るぎない雰囲気と言えます。
後光の力
外見的な肉体を通して表れる人格について、目と健康、風格の三つを挙げました。
では、最後に霊的な視点で見るとどうなのか。
それについても触れたいと思います。
結論から申し上げれば、あの世の世界では私たちは物質の肉体はまとっていませんから、その人が発している光そのものが人格の判断基準となるのです。
その人から光が出ているのでありまして、それは分かりやすく言うと「後光」というものです。
これはなかなか肉体の目で見えるものではないわけですが、その人の後頭部辺りから光が出ているのです。
よく仏像や天使などの頭の上に光の輪がある姿や絵などを見かけますが、あれは後光が出ていることを表現しているのです。
あの世では、その相手がどれくらい偉大な人なのかは一目瞭然であり、見たら一瞬で分かるものなのです。
自分より上段階の霊人がやって来たときには目がつぶれそうなくらいに眩しく、その光に打たれてしまいます。
これは物質の肉体を持っていてもそうで、講演などでその姿が光り輝いて見えるような人というのは後光の力が働いているのです。
また、神理の言葉を語るときなどにも天上界から光が降り注いで、その光を受けて光り輝くということもあります。
そのように、肉体を持っていたとしても、やはり人間は誰もが霊的な存在であるので、感じ取れるものがあるということなのです。