最高度の癒しは神の愛の思い

愛の実践

癒しを求める現代社会

ストレスの多い現代において、「癒し」を求めている人が多いのではないでしょうか。

たとえば、YouTubeの中には、多数のヒーリングミュージックなどがアップされていて、私も疲れた夜などにはそれを聞いたりしてリラックスしています。

その非常に多くの再生回数などを見ると、やはり多くの人が、私自身も含めて、癒しを求めていることの裏返しのように感じられるのです。

魂としての最大限の癒し

癒しというものも、最高度になれば、それは大宇宙から発せられる愛の思いです。

それは自らを生かす思いだけに止まらず、神の子である仲間たちをともに生かし合おうとする思いであります。

そして、多くの人の気持ちになり、喜びも悲しみも分かち合っていく。幸せも辛さも分かち合いながら、互いに励まし合い、慰め合っていく。

そのときに相手を裁くことなく、ありのままに相手の全存在を受け入れていく。

神の一部として、神の子として、ともに手を取り合ったときに、魂としては最大限に癒されるのです。

心や身体に傷を負った人を愛と励ましで包むこと

この世に生きているときには、様々な苦しみというものも出てきます。

たとえば、心に傷を負い、または肉体に傷を負う人もありますでしょう。

そのような人たちを愛と励ましで包むことこそが癒しでもあります。

それはつまり、優しく手を差しのべることです。分かち合うとは、相手の苦しみや負担の気持ちを軽くしてあげるということでもあります。

その苦しみを相手の代わりになって引き受けることはできませんけれども、少しでも相手の辛さが和らぐように声をかけてあげる。

病で苦しんでいる人たちも含めて、すべてが神の子であり、決して自分に関係ないことではないのです。

「自己責任」と言って相手を見放すような思いは愛ではない

「自己責任」という言葉がもてはやされる時代でもありますけれども、もしそこに相手を見放すような思いが潜んでいるのであれば、それは愛の思いからはかけ離れたものであります。

確かに自分のやったことが自分に返ってくるのは原因結果の法則通りであります。しかし、その結果を受け止めている人が苦しんでいるのであれば、その辛さを少しでも軽くしてあげられるように助けることは決して無駄なことではないはずです。

そのように、相手がやったことなのだから自分には関係ないと突き放すのではなくて、同じ神の子としての連帯感を持って手を差しのべていくこと。

それこそが今の時代に必要なことでもあると思うのです。

自分も同じ苦しみを経験したことがあるから寄り添える

人の苦しみや悲しみに寄り添うことができるのはなぜでしょうか。

それは自分も同じようなものを味わったことがあるからこそなのです。だからこそ、相手の苦しさも分かり、他者の痛みが自分の痛みでもあるという一体感を持つことができるのです。

癒しというのは、このように他者の苦しみや悲しみに寄り添う愛の思いであります。

一人ひとりが誰かの癒し手となれば、多くの方の苦しみが和らいでいくのです。