人の心はガラス張り

この世とあの世

人の心はガラス張り

この世で生きているときは相手の頭の中は見ることができません。相手が頭の中で思っていることと口に出して話していることが違っていることもあります。

でも、それに気づくことは難しいです。たとえば、相手が自分を騙そうと思っているとしても、一見しただけではそれを見抜くことなどできません。

ところが、あの世に帰ればそうはいきません。

自分の思っていることがそのまま相手に分かってしまいます。どうして分かってしまうのかというと、たとえば、視覚的に言うと、思っていることが頭の後ろに全部描き出されているからです。

その人が思っていること、抱えている世界観というものが、頭の後ろに目に見えるような形で表れているのです。それを見て、相手がどんなことを考えているのかが分かってしまうのです。

まさに「ガラス張り」なのです。

肉体があれば、ガラス張りとまではいかないです。
なんとなく、感じとして、相手がどう思っているかは肌感覚として分かることもありますが、明確にはっきりとそれが分かるということはほとんどありません。

ですから、逆に言うと、肉体を持っているからこそ、偽れることができるのかもしれません。あの世に帰ってしまえば、自分を偽ることはできません。思っていることがすべて相手に分かってしまうのですから。

あの世である男性と出会う

以前、夜眠っているときに、あの世に行って、ある男性と会うという経験をしたことがあります。

普通はあまり信じられないかもしれませんが、私たちは眠っているときに、霊体があの世に帰ってエネルギーの補給をしています。

普段この世で生活していると、自らの本来の姿やあの世のことなど忘れてしまっていますが、一日中使い果たしたスマートフォンを充電するかのように、エネルギーの充電にあの世へ戻り、本来の自分は霊的な存在であるということを忘れないためにも寝ている間にあの世に帰っていると言われています。

そのとき、私は黒い車の後部席に乗っており、両隣にスーツを着た男性が座っていました。車が止まり、着いたところは日本庭園のような場所でした。

スーツを着た男性に促されるようにして車を降りると、そこには池のようなものがあり、多くの人たちがその庭園を歩いていました。

車を出ると、ある男性が目の前にいました。私の脇にいたスーツの男性が「こちらが坂本龍馬さんです」と言って引き合わせてくれました。

私は坂本龍馬さんにはもちろん会ったことはありません。

その相手が本当に龍馬さんなのかも確認するすべはありません。

あの歴史の教科書で見たことのある、龍馬さんの写真とは全然顔が違っていて、俳優のような顔立ちで、彫りが深く、男性の私でも惚れてしまうのではないかと思わせられるほどのかなりのイケメンです。

握手をしてもう一度相手を見ると、頭の後ろには広大な世界が広がっていました。それを見たときに、この人がいかに器の大きい人であるのかということに一瞬で気づきました。

その器の大きさというのが尋常ではないのです。視覚的に言ってみれば、相手の頭から左右に何千キロ、何万キロというような、広大な地球の大地が広がっているような感じなのです。

それはまさしく、相手が抱えている世界そのものであり、思いそのものなんだと思いました。

残念ながらそこまでしか覚えていないので、それが本当に坂本龍馬だったのかどうかは分かりません。

ただ、あの尋常ではない器を持った男性が、あの明治維新という一時代を駆け抜けた坂本龍馬という人だったとしてもおかしくはないと思えるほどでした。

あの世に持って帰れるのは「心」だけ

あの世の霊人であれば、見せようと思えばどんなものでも見せられるはずですが、その本人の思いというものは、霊界においてはやはりガラス張りのようにして相手に分かってしまうものなのだと思います。

であるならば、どのような心でもって、あの世に帰っていくのがよいのか。あの世に持って帰れるのは心だけです。

心というものだけを持って、肉体を離れていきます。この世での地位も名誉もお金も、心以外のものはすべて置いていかなければなりません。

そして、その心境に応じて、あの世の行先が天国にも地獄にもなっていくのです。あの世はガラス張りですから、あまりにもかけ離れた思いを持った人たちとは居心地が悪く、一緒にいることができません。

エネルギー的に言えば、引きつけ合うのではなく、波長が異なるために反発してしまうのです。それが「波長同通の法則」というものであり、「類は友を呼ぶ」とも言われるものです。

あの世から見れば、地上で生きている私たちの心などガラス張りです。

どんなことを考えているかなどすぐに分かってしまうのです。

ガラス張りで見られても恥ずかしくないか。

それが、この世とあの世を貫く、神の子としての生き方の基準とも言えるのです。