学問とは神の叡知を探究するもの

神の子

知性の時代と言われる中で

現代は「知性の時代」とも言われ、「知」がもてはやされることもありますけれども、この世的な地上における知は人間が勝手に作り出したものも多いかもしれません。

本来の知とはどのようなものでしょうか。それは決して人間が勝手に作り出すようなものではなく、神から流れ出てくるものであり、神の叡知をもって本来の知と言います。

それはただの表面的な知識や知恵として知っていることは、根本的な知ではないということです。神と離れた知は本来の知というものではありません。

神を抜きにした学問は本当の学問とは言えない

それは学問も同じです。神の叡知が流れ、それが土台となっている姿が本来の学問の姿であり、神を否定し、神を抜きにした学問であっては本当の意味での学問とは言えません。

学問と言っても、「学」と名のつくものはたくさんありますよね。

それは文学や経済学、心理学、政治学、哲学、生物学、医学、物理学など、文理問わず様々あるわけですけれども、それらの知識や体系も、神がおつくりになられたこの宇宙、この世界、この私たちという人間神の子の存在を探求し、追求し、その真実を理性的に認識するということに尽きているのではないでしょうか。

どんな学問であったとしても、神の存在を抜きにした学問というのはあり得ません。神の叡知を求め、それを探求することが本当の意味での学問です。

古代ギリシャ時代にさかのぼる学問の源流

現在の学問は、古代ギリシャ時代にさかのぼることができると言われています。それはソクラテスやプラトン、アリストテレスと言われる方々が真の知恵者として当時語り伝えたものが源流となっています。

いつの時代にも霊的な高みをつくるスポットというものがあり、知を通して神に至る道をつくり、学問の源流をつくられたのが当時のギリシャという場所でした。

ソクラテスという人は「無知の知」ということで、いかに私たち人間が偉大なる神に比べて小さき者であり、どんなに自分が知識ある者だと思っても、本当は何も知らない存在であるということを言って歩き回りました。

神とはどのような存在なのか。自分たち人間がどのような存在であるのか。それを知らなければ本当の知とは言えないということなのです。たとえ様々なことを知識として知っていたからと言って、それらに溺れ、もてあそんでいるようでは真の知恵者とは言えません。

真の知恵者とは、自らが神の子であるという認識の中で、深い信仰心をもって圧倒的な神の叡知につながり、それを引き出し、語れる人です。

神の子である私たちは神の一部であり、神の思いに同通すれば、いくらでも神の叡知につながり、それを多くの人々の幸せのために生かしていくことができるのです。

知は愛に奉仕するためにある

知性の時代と言われる中で、知性というものが愛に奉仕するためにあるものだということを私たちは改めて知る必要があると思うのです。

難解な知識をたくさん持っているから偉いということではなく、一部の人しか理解できない難しいものが価値の高いものなのでもありません。

遊戯のように難しい知識を寄せ集めて、自分たちにしか分からない世界に閉じこもっているようでは、全く多くの人々の幸せの役に立つこともなく、愛に役立つこともありません。

知というのは愛に役立てるためにあるものであり、より多くの人たちを幸せにしていくために使うものです。

その意味で、知性は愛を証するための裏づけとして生かされるものであり、愛を脇から支えるものとも言えるかもしれません。愛をもって知性を生かさなければ、愛の通っていない冷たい知性となり、本当の意味で生かされることがありません。

最も根本的な立脚点

私たちが宇宙に満ちる愛のエネルギーである神から分かれた神の子として、愛の一部として存在している以上、神の存在が最も根本的な立脚点であり、そこから展開されるものが本来の学問の姿であると思います。そこにおいては信仰心は切っても切り離せないものです。