金銭的な貧しさや容姿の悪さは不平等なのか
「私はどうしてこんなに貧しい家に生まれたのだろう」
「自分はなんで友だちより容姿が劣っているのだろう。ルックスが悪いんだろう」
「神さまはなぜこんなに不平等なんだろう」
そう思われている人もいるかもしれません。
生まれたときから経済的にも恵まれ、肉体的な容姿にも恵まれている人がいる一方で、家が貧しく、顔形にも自信がないという人もいます。
恵まれている誰かと恵まれていない自分という事実を前にして、ときには神を恨むような気持ちになることがあるかもしれません。
しかし、それは神が不平等だからというわけではありません。
そのような人生を自分自ら計画して生まれてきているのです。
それが魂の学びにとってベストだと選択してきた
私たちは自らの魂の課題をクリアし、成長するために地上に生まれてきます。
そのときに神が「あなたはこのような条件で生まれなさい」と言われたわけではなく、私たちは自分自身でそのようなスタート地点を決めてきているのです。
生まれ落ちた家庭の経済環境や容姿の美醜などもそうなのです。
それが魂の学びとしてベストであると自ら選択して生まれてきたということなのです。
裕福な家に生まれるのか、貧乏な家に生まれるのか
私たちが永遠の命を与えられている魂であるという観点から見たときに、金銭面や容姿で恵まれていることが必ずしも良いことだとは言えません。
例えば、過去世において裕福な環境にいたとき、お金だけがすべてであるという間違った思いのとりこになり、多くの人たちを苦しめてきたことがあるとします。
すると、そのような人生を送った後、あの世に帰ってからやはり反省するわけです。
多くの人たちを苦しめる生き方ではなく、多くの人たちを幸せにする生き方、愛ある生き方を自分はするべきだったのではないか。
ただ裕福な環境にいただけでは、そうではない人々の気持ちや苦しさも分からないものです。
そのような経験を過去世で味わっているのであれば、やはり今回は貧乏な環境に生まれて魂の修行をしたいと思い、人生計画を立ててくることもあるわけです。
肉体的な容姿の美醜も自らの選択の結果としてある
また例えば、過去世で綺麗な容姿で生まれた女性がその美しさを鼻にかけて、そうではない人たちを傷つけたり、多くの男性を惑わし苦しめて、自らの魂をおとしめていってしまったことがあるとします。
するとやはりあの世に帰ってから今回の人生を振り返る中で、人間神の子としての本当の美しさとは何なのかということに自ら向き合わないわけにはいかないのです。
肉体的な見た目の美醜だけでもって思い上がり、周りに対する労りや優しさを忘れた生き方では愛の体現者とは言えません。
そうなると、容姿の醜さで侮蔑していた相手に対する申し訳ない気持ちが湧いてきて、次の人生では自らが同じ立場として恵まれない容姿で生まれることもあります。
はたまた逆に、また美しい容姿を持ち、過去世と同じような条件、環境の中に生まれて、今度こそは愛ある生き方ができるかどうかを試すということもあります。
いずれにしても、それはすべて自分自らが地上に生まれる前に決めてくることなのです。
過去世の経験と反省を踏まえての今世
周りの人と比較したときに、自分はなんでこんな人生なんだろうと不満を覚えるかもしれませんけれども、その人生こそが実は他の誰でもない自分自身が望んできたものなのです。
今の人生からどれだけのことを学べるか。
その経験を通してどれだけ魂の学びを深められるか。
そのために様々な人生の計画をして、私たちはこの世に生まれてきています。
ありのままの人生を一度丸ごと受け入れてみる
こんな人生と思うこともあるかもしれません。
でも、その人生はあなたにとって黄金の価値があるということです。
そこには他のものには代えがたい本当に大きな価値があるのです。
不平不満に溺れるのではなく、自らの人生を一度丸ごと受け入れてみること。
すると、不遇だと思っていた環境や状況が、実は本当はどれだけの恵みだったのだろうということに気づいて、これまでの人生に対する感謝が心の中に湧いてくるようになります。
神は無条件に私たちを愛されている
神は決して不平等、不公平なのではありません。
神はすべての神の子たちを等しく愛されています。
そして、無条件の愛で私たちを生かし、育まれ、いつでも力になりたいと思い、温かく見守られているのです。
自らの人生を誰かのせいにするのではなくて、自分で決めてきたこの人生を味わい尽くし、学び尽くしてみることです。
そのとき、あなたが「絶望」だと思い込んでいたものは本当は「希望」だったのだと気づいていくことになるです。
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