八正道とは何か
ブッダが説かれた「八正道」(はっしょうどう)というものがあります。
それは一言で言えば、心と行いを正すための方法論であり反省法です。
それは自らの心をより澄み切った心、神近き心でもって見つめ直すということです。
その神近き心をブッダは「善意なる第三者」や「善我」と呼んでいました。
自分自身の中にある純粋な部分、ウソがつけない部分とも言えます。
この真実なる心で自分の思いと行いを振り返り、正していくことが八正道の原点であります。
自ら点検していくその八つの項目が「正見」(しょうけん)、「正語」(しょうご)、「正思」(しょうし)、「正業」(しょうぎょう)、「正命」(しょうみょう)、「正進」(しょうじん)、「正念」(しょうねん)、「正定」(しょうじょう)です。
正見
正見は「正しく見る」ということです。
自分や他人の姿、あり方、身の回りの出来事などを正しく見たかどうか。
人間は目から入ってくる視覚的な情報がとても大きな量を占めています。
それによって悩みが生じたり、心が波立ったり、欲が募ったりします。
ですから、それらをどのように見るかということが非常に大切なのです。
その実践方法としては、まず一日の終わりに落ち着いた環境で心を整えます。
そして、自分自身を全くの他人のように考えて、その日に見たことを第三者の目で眺めてみます。
自分はそれらを神近き心で見ることができていたか。
善なる心で捉えていたか。
それをしっかりと見つめて、もし自分がそのような心で見ることができていなかったのであれば反省をするのです。
その際に、そのような見方をしてしまった原因がどこにあるのかをしっかりと自分の中に見出して、それに気づいていくことがとても大切なポイントです。
例えば、嫉妬心が自分の中にあったのではないか。
自分さえ良ければいいというエゴの思いがあったのではないか。
そこに気づかなければ、自らの思いを改め、改善していくことにつながりません。
正語
正語は「正しく語る」ということです。
人間はつまるところ、語られた言葉によって傷つくこともあれば、喜ぶことも多いものです。
他人から発せられた言葉によって自分の幸不幸が生み出されることもありますし、また、自分の発した言葉によって他人の幸不幸を作っていることもあります。
一日を振り返ってみて、自分がどのような言葉を発したのかを具体的に思い返して、その言葉がどのような言葉であったかという点検を自ら行います。
善い言葉、神の心に叶う言葉を発したか。
他人を傷つけ、苦しめるような言葉や不安を煽るような言葉などを発していないか。
否定的な言葉というのは、他の人たちが幸せにならないような言葉です。
そのような言葉を発しているのであれば、自ら反省し、直して改善していくということです。
そして、人を幸せにする言葉、人を褒めるような言葉であったり、感謝の言葉などを積極的に発したかどうかも振り返ってみることです。
正思
正思は「正しい思い」です。
思いとは心の中、頭の中に流れている考えです。
人が一日の中で思い、考えていることはとりとめもなく、様々な方向に行ったり来たりしているものです。
その人がどんな人なのかは、その人がどのような思いを出しているかで分かります。
その思いを純化し、善いものとし、美しいものとしていくことによって人生を素晴らしいものとしていけるだけではなく、この世界をも浄化していくことができるのです。
それだけ人間の思い、想念には大きな力があるのです。
まずは自らがどのような思いを持っているかを一日の中で振り返ってみる時間を作ってみることです。
もし何か悪しき思いが出たときには、すぐにそれを修正し、申し訳ないと心の中で反省するようにすることです。
また、心の中に何らかの引っかかりやわだかまりがあるのであれば、それがその人を不幸にしている元凶に当たっていることが多いのです。
ですから、反省によってそれらを解きほぐして、取り除いて、心を解放していくことが大切です。
正業
正業とは「正しい生業(なりわい)」、つまり正しく仕事をなすということです。
この社会の中で一口に仕事と言っても様々なものがあります。
しかし、どのような仕事であっても、誰かの役に立ち、人々の幸せに貢献するということがその根幹にある共通理念だと思います。
それを踏まえた上で、正業の点検項目としては、まずはその仕事がその目的も含めて自らの良心、善なる心に照らしてみたときに相反するものではないかどうかということです。
それに反しているにもかかわらず、自らの心にウソをついて悪しき仕事をするのは正しい仕事をなしているとは言えません。
また、その仕事を進めることで、より多くの他の人々の幸せを増していくような仕事であることが大切です。
たとえ一時ある人々にとっては不調和を生み出す可能性があるものであったとしても、長い目で、広い目で見たときに社会全体の発展に寄与しているのであれば、それは決して悪ではありません。
正命
正命とは「正しく命を全うする」、つまり正しく生活をするということです。
誰にとっても等しく一日は二十四時間であります。
この一日という枠をどのように使い、活かし、充実させたものとしていくかによって、その人の人生が決まっていくのです。
それは非常に公平なものだと思います。
多くの人は昨日があって、今日もあり、当然また明日もあるだろうと思っているのではないでしょうか。
しかしながら、今日いつ死ぬことになるかは誰にも分かりません。
明日も同じように命があるとは言い切れないのです。
「一日一生」という言葉がありますが、その意味はその日一日を一生のように思って生きるということです。
そのような観点から一日を振り返ってみたときに、本当に悔いのない一日を送ることができたかどうか。
自分はこの一日をやりきったと言えるような時間の使い方、生き方ができたかどうか。
正命とはそのようにして一日一日を点検してみることです。
正進
正進とは「正しく精進をする」ということです。
それは「正しく道に精進をする」とも言えます。
この「道」とは何でしょうか。
それは神理の道です。
神理を学び、日々実践をするということ。
それによって魂の進化、向上を果たしていくことです。
結局のところ、この三次元の地上の意味を考えてみると、魂の修行場であるということなのです。
魂の学習の場として私たちに与えられているものなのです。
それと同時に、神の思いを具現化した世界を創り出していく場でもあります。
そのような観点から霊性の進化、向上につながっているかどうか。
それを振り返ってみることが正進であります。
正念
正念とは「正しく念ずる」ということです。
念というのは方向性を持った、持続性のある心の思いのことです。
この念が常に神の方向を向いているか。
より善なる方向、より理想的な方向を向いているか。
具体的に言うのであれば、将来に向けた人生計画、目標設定、そして思い描いているビジョンが正しいものであるかどうかということです。
それをチェックする観点が正念であると言えます。
また、自分を見守り、導いてくれている守護霊や指導霊に対する感謝の念も正念であると言えます。
正定
正定とは「正しく定に入る」ということです。
定に入るとは精神統一の時間を取るということです。
それは自らの心を見つめる時間を取ることだとも言えます。
それは尽きるところ、大宇宙の神の心を感じ取り、自らの心を神の心へと同通させていくことです。
自分という存在は自分という枠の中に収まっているだけではないのです。
神の一部として、大宇宙に満ちる愛のエネルギーの一部として私たちは存在し、命を与えられている存在であるということ。
すべてが愛で一つにつながっているということ。
そのように大宇宙へ心を溶け込ませ、すべてが一体であるという心境に達していくことが正定というものであります。