善は神の思いにかなっているかどうかという一点に尽きる
「善」というのは正しいことや道徳にかなっていることと言われますが、その判断基準はどこにあるのでしょうか。
それは人間が決めた基準で「これは善い」とか「あれは悪い」というものではなくて、本来の善というのは神の思いにかなっているかどうかという一点に尽きるものです。
たとえば、私たちが日頃思っていることや言動が神の御心に沿っているものならば、それらは善であります。
神の思いと自らの思いが重なっているとき、そこから私たちを通して生まれてくるものは善いものでしかありません。なぜなら、神とは最高の善なる存在だからです。
ソクラテスが言われた「善く生きよ」
ギリシャの哲学者でソクラテスという人がいました。ソクラテスが言われたのは、ただ生きるのではなく「善く生きよ」ということでした。
「善く生きよ」とはどういうことでしょうか。それはつまり「神の思いに沿って生きよ」ということです。
ともすれば私たちは自分勝手に、勝手気ままに生きがちですが、そうではなくて、神の思いがどこにあるのかを知り、神がどのような心をお持ちなのかを知って、その思いを自らの思いとして生きよということです。
それは別に難しいことでも複雑なことでもありません。本来の自分たちの姿に気づき、自覚して、ともに愛し合って生きてほしい。神が望まれているのは、神の子である私たちが愛を表現して生きてほしいという本当にシンプルなものです。
愛とは自分さえよければいいというエゴの思いではなく、互いに生かし合い、違いを受け入れて、それぞれの良さを認め合い、ともに協力して生きていこうという思いです。そのような愛を生きることが善く生きるということです。
神は愛であり、誰もが神の愛の一部である
神とは愛であり、私たちはその愛のひとひら、ひとひら切り分けられた存在であり、誰もが愛の一部であり、神の一部です。
本来、自分たちがどのような存在として生み出されたのかに気づき、愛をきらめかせたときに出てくる思いや言動は神の愛の思いの方向と同じ方向を向いているはずです。
それをもって善であると言われ、それとは反対の方向であれば悪と言われるわけですけれども、元々この宇宙の中で悪が悪としてつくられているというわけではありません。
神の世界は光一元
神の世界には善しかありません。光しかありません。それは別の言い方で言うならば、「光一元」とも言われます。では、なぜ悪というものが存在し、闇というものが存在しているのでしょうか。
光に対する闇、善に対する悪というものが神のご意志でつくられたわけではなく、元々はすべてが光であり、善であります。私たちは誰もが光の存在としてつくられて存在しています。
神は私たちに絶対的な自由意志というものを与えられて、何を思うのも、何をするのも一人ひとりの自由に任せられています。
闇や悪というのは、その自由意志の乱用によって自らの光を曇らせているだけなのであって、自らが本来の姿を忘れているだけに過ぎないのです。
心の曇りを取り除けば、どんな悪人でも光が溢れ出す
窓ガラスというのは雨やホコリで汚れますけれども、その汚れを取り除けば透明になって光が明るく通るように、私たちの心というのもエゴの汚れを取り除けば、その内側からまた光が輝いて溢れ出るのです。
なぜなら、私たちは例外なく誰もが神から分かれた光そのものであり、どんな悪人に思えるような人であったとしても、その内側には神の光をたたえているからです。その光り方を忘れてしまっているだけであり、曇りを取り払えば再び光り輝き始めるものです。
悪を悪と決めつけて裁くような気持ちは神にはないのです。神はそのようなことは全く思われていないし、本来の愛の姿、光の姿に立ち戻ってほしいとすべての神の子たちを温かく見守りながら願われていらっしゃいます。
善とは一人ひとりの生き方を通して表れてくるもの
善とは一人ひとりの生き方を通して表れてくるものです。
それは、日々の生活の中における私たちの思いや行いが神の愛の思いに沿っているかどうかということに尽きるものであり、神より分け与えられている光の存在として愛を光り輝かせて生きられるか。それが結果的に善として表れるものです。