人間は神の子であり、神の一部としてつながっている

神の子

人間は神の子であり、神の一部としてつながっている

私たちの命というのはどのように生み出されたのでしょうか。

一般的には、父親と母親の愛が結晶化し、この世に肉体を持ち、生まれてきたと思われているかもしれません。

しかし、肉体というのは死ねば朽ち果ててしまうものです。お葬式に出たことがある人であれば、火葬の後、故人の骨だけが残り、本当にあっけなく目の前から故人の存在は消えてしまったように感じます。

ところが、その亡くなった人の存在は目には見えないだけで、いまだに生きています。もう別世界の住人になってしまったとはいえ、あの世で変わらずに生きているのです。

そんなことは信じられないという人もいるかもしれません。それも無理はないと思います。

なぜなら、私たちは生まれてくるときに、それまでの記憶をすべて消して生まれてくるので、あの世のことなんか全く覚えていないからです。あの世なんかあるはすがないと思う人がいても不思議ではありません。

誰もが死後、あの世の存在を自覚せざるを得ない

ところが、事実、あの世というものは確かに存在していて、そこは誰もが死ねば帰っていく世界であります。

信じる信じないに関わらず、厳然と存在しているのがあの世であり、これは死後に一人ひとりが自覚せざるを得ないことでもあります。

どんなに信じられないと言えども、自分自身でいつかは直面せざるを得ない状況に陥るわけです。

あの世があること。人間の本当の姿が魂というエネルギー体であること。それらはいずれ誰もが自覚せざるを得ないことでもあります。

なぜなら、死んだ後にも、自分の意識があり、あの世に帰れば、すでに亡くなった親や家族、友人などが出迎えに来てくれる光景を目の当たりにすることになるからです。

徐々に、元々住んでいたのがあの世のほうであり、この世には修行のために一時生まれてきていたことも思い出すようになるわけです。

それまでの過去の人生のこともだんだん思い出してきて、様々な時代に、様々な地域に生まれていたこともはっきり思い出してくるようになります。

そのような永遠の時の流れの中で、自らの魂の器を広げるために、異なる環境の中で、多くの一生を何度も繰り返しているのが私たちの本当の姿であります。

この大宇宙は、愛のエネルギーである神によってつくられた

ここで最初の疑問に立ち返るわけですが、そうであるならば、私たちの命というのはどのように生み出されたのでしょうか。

その答えを知るためには、私たちが存在しているこの大宇宙が誰によってつくられたのかについて思いをはせる必要があります。

それは、一言で言えば、神であります。神と聞くと、様々な宗教の教祖を思い浮かべる人もいるかもしれませんが、実はそうではなくて、この大宇宙をつくられたのが神と言われる存在です。

神とはこの大宇宙をつくられた愛のエネルギーであり、あらゆる存在の親でもあります。命を持ったすべての存在が、神の愛のエネルギーの一部として生きており、文字通りその愛のエネルギーを分け与えられた存在、神の子なのです。

大宇宙の神の愛のエネルギーから分化していったのが私たち神の子

たとえば、アメーバが細胞分裂をすると、元々の一つの存在から独立した異なる生命体として活動を始めますが、それと同じように、元々は神の愛のエネルギーとして一体であったものが、この大宇宙を彩り、より豊かな愛を表現するために分化していったのが神の子たちの姿であり、私たち人間はもちろん、大宇宙の星々も、動物も植物も、あらゆる命あるものたちがすべて神の現れとして生きているのです。神の子でないものなど、この宇宙には一つも存在していないのです。

身近にいる家族や肉親、友人や知人、同僚であったとしても、すべての人たちが神から生み出されてきた神の子であります。それぞれの魂の歴史は違ったとしても、その根本においては同じ愛のエネルギーでもって一つにつながっている存在であり、言ってみれば、神の子として兄弟姉妹であります。

神が望まれているのは、神の子たちが互いにそれぞれの素晴らしさを称え合い、お互いに足りないところがあるならば、それぞれがそれを補い合い、協力し合って、大いなるハーモニーを歌い上げることです。互いに反目し合い、傷つけ合うことなど望んではいません。

自らも神の一部であり、神の子であるという自覚を一人ひとりが持てたとき、これまでの争いというものは愛のもとに一つに溶け合い、今地球に住まう神の子たちとして手を取り合い、神の望まれるような世界をつくっていくことができるのだと思います。

そのためのキーワードが「神の子」であり、その自覚に目覚める時期がまさに今という時であります。

誰もが例外なく神の子であり、私たちは神の子としてどのように生きていくのか。自らの人生は自分のためだけにあるのではなく、神の子としての人生をどう生きていくか。愛のエネルギーとして、どう愛を表現していけるのか。

神の子としての命とは、究極的には、分け与えられた愛をどのように表現していけるか。そのためだけに存在しているものなのです。