不動心〜神の思いを我が思いとして神とともに立つ〜

どんなことにも揺れずに折れない心

不動心」というのは、昔から仏教でも大切であると言われています。

なぜなら、人間の人生における悩みや苦しみの多くは、心が揺れ動くことによって生じるからです。

「動かない心」と書いて不動心ですけれども、動かないというのは喜怒哀楽がないとか、感動することがないとか、頑固であるとか、人の意見を聞かないとか、そのような意味ではありません。

それはどんなことがあっても揺れない心、折れない心、何か問題が起きてもそれを跳ね返していける心です。

ちょっとやそっとのことで動じない心であり、揺るぎない信念、力強さ、安定感とも呼べるものです。

それは大雨や暴風にも倒れない一本の大きな木をイメージすると分かりやすいかもしれません。

嵐がやってきても決してなぎ倒されることなく立ち続けている大きな樹木。

そのような心を持つことが人生を生き抜いていく上でも、何かを成し遂げる上でも、とても大切なことだと思うのです。

不動心の原点は神とのつながり

では、どうしたらそのような不動心を持つことができるのでしょうか。

例えば、一本の大きな木を思い浮かべてみると、その地面の下では無数の根を張っています。

大地とのつながりを支えているのがそれらの無数の根っこですよね。

その根を深く這わせていることによって、木は倒れることなく、すっくと立っています。

私たち人間にとっての本質的な土台となる、根本的なつながりというのは何でしょうか。

それは大宇宙の神とのつながりです。

私たちが神の子であり、神の一部であるということ。

そのつながりが原点であり、土台としてあります。

それを知り、そこの自覚を抜きにしては、浅く細い根しか生やせられず、グラグラと揺れ動いてすぐに倒れてしまうような存在にならざるを得ません。

不動心を持つための原点として、一番大切なことは神とのつながりです。

神の一部として神とともに立つ

神というのは、その思いによってこの大宇宙のあらゆるものを創造された愛のエネルギーです。

その神の愛のエネルギーから、その一部をひとひらずつ分けられた存在が私たち神の子であります。

それはつまり、神と私たちは別々の存在ではなく、一体であるということなのです。

それは「ワンネス」という言い方もされますけれども、私たち一人ひとりが神の現れであり、そのつながりのすべてをもって大宇宙の神は存在されています。

私たちは偶然にたまたま適当に生まれた存在なのではなくて、神の個性の一つの現れとしての自分自身という認識を持つことがとても大切なことです。

そのような認識を持つということは、神の一部として神とともに立つということです。

それより強く、深く、太いつながりの根というものはありません。

どんなに大きな木も最初は小さな種、小さな芽から始まる

とはいえ、そのような認識を持っただけで、誰でもすぐに不動心が持てるわけではありません

あるときから突然、揺れない心が備わったように見える場合であったとしても、やはりそれまでの間に様々な「心の鍛錬」を経てきているものです。

一朝一夕でそのような状態になれるものではありません。

どんなに大きな木であっても、最初は小さな種であり、小さな芽を出すところから始まるのです。

そして、時間をかけながら少しずつ成長していくものであり、その成長にあわせて根も大きく、太く、深くなっていきますよね。

春夏秋冬という四季があり、風が強い日もあれば、雨が多い日もあり、暑い日もあれば、寒い日もあります。

そのようなものに晒されながら、強くなり、木の幹も太くなっていくわけです。

経験の蓄積により心の強度が生み出される

私たちの心というのもそれと同じなのです。

小さなことで心が揺れて、悩みや苦しみが生じるところから始まり、傷ついたり、落ち込んだりしますよね。

でも、どうでしょうか。

十年前に何か悩んでいたことがあるとして、それを思い返してみると、今となってはなんて小さなことで悩んでいたのだろうと思えるようなことはいくつもあるのではないでしょうか。

十年前とは言わずとも、五年前でも三年前でもいいのですけれども、今の自分が当時と同じようなことで悩み苦しみ、心が乱されるかと言うと、そんなことはないはずなのです。

その経験を通した分、その悩みをどのように捉えて、どう解決していけばよいかの経験値が自分の中に蓄えられていて、やはり成長しているのです。

たとえ同じようなことで多少心の揺れることがあったとしても、以前よりも心の調和を取り戻していきやすくなっているのではないでしょうか。

そのような経験の蓄積によって心の強度が増して、それが不動心につながってくるのです。

辛い経験から回復していく過程で心は以前よりも強くなる

スポーツをしたり、筋トレをしたりする人は分かると思うのですけれども、あえて負荷のかかるトレーニングをすることによって筋肉には何が起きているのでしょうか。

それは筋肉の繊維をいったん傷つけ、壊しているのですよね。

傷つき、壊された筋肉の組織というのは、それが回復して再生するときに、それ以前の状態よりも強くなるのです。

そして、筋肉は大きく、太くなるのです。

それが「超回復」と呼ばれる現象ですけれども、それは心においても同じであると思います。

傷つき、深い悲しみを味わい、もう立ち上がれないかもしれないという辛い経験をしても、そこから回復していく過程において以前よりも心は必ず強くなっていきます

心が傷つくことを恐れないこと

ですから、心が傷つくことを恐れないということです。

心が傷ついても必ず回復するのです。

たとえ多くの時間がかかったとしても、心はだんだんと回復していきます。

それは自然治癒力とも言われているように、肉体だけではなくて、元々そのように自ら回復していく力というのを私たちは持っているのです。

またその上、回復した後は以前よりも心が強くなっているのですから、より良くなっていくしかないということを思えば恐れることなど何もないということです。

いつでもまたゼロからやり直せるという心境

「発明王」とも呼ばれるトーマス・エジソンには次のような逸話があります。

それはエジソンの研究所が火事で燃えてしまったときのことです。

家族が慌てふためいて、研究所が燃えてしまっていることを告げると、エジソンは現場でそれを見届けてこう言ったそうです。

「良かった。これでまたゼロからやり直せる」

それまでの研究資料や築き上げてきたものがすべて燃えて灰になってしまったにもかかわらず、そのように言える心境こそが不動心の一つの現れだと思うのです。

つまり、いつでもゼロからやり直せるという心ですよね。

それまでの時間と労力をかけて築き上げてきたものをすべて消失しても、またまっさらな状態でゼロからリスタートしていけるという思いです。

そのような心境というのは本当に強いですよね。

なぜなら、そこには恐れがないからです。

掴んでいたものに執着しないで手放すこと

心が揺れる原因の一つは恐れであり、恐怖というものです。

「何も持たない裸の自分になるかもしれないけれども、それでもいいじゃないか。それでもやっていける」という折れない心。

私たちはこの世に生まれるときは何も持たずに生まれてきました。

そうであるならば、また生まれ直したのだと捉えて新たに歩き始めればいいのです。

たとえ、自分が掴んでいたものをすべて手放すことになったとしても、そこに執着しないという心です。

神の思いを我が思いとして

不動心とは、神とのつながりの中で、神の思いを我が思いとして生きてゆく心が原点としてあります

そして、どんな困難が降りかかってこようとも、自らを守ることなく、挫けることなく、傷つくことも恐れず、すべてを前向きに捉えて歩んでいくこと。

それはその決意と覚悟の中から醸成されてくるものです。

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どんなことにも揺れずに折れない心、それが不動心です。 不動心の原点とそのような心境がどのように育まれるかについて語ります。 ▼ 不動心〜神の思いを我が思いとして...