愛と自由

愛の実践

私たち神の子は本来、非常に自由な存在であり、「こうあらねばならない」というような縛りも、「こうでなければいけない」というような押し付けも宇宙にはありません。神の本質は自由であり、宇宙の本質は自由です。

そのような自己限定をしているのは私たち自身であって、私たちは気付かぬうちにそのような制限を自らにかけてしまっているのかもしれません。

がんじがらめに自らを縛れば縛るほど、人はどうなっていくでしょうか。そこから外れる他者のことが許せなくなってくるのです。そして、自分が正しく、相手のほうが間違っているんだと人を裁き始めるようになっていきます。

たとえば、子育てなどでもよくありますよね。親の価値観を子どもに押し付けて、「こうすべきだ」、「ああすべきだ」と、子どもの思いや考えを無視して、自分の価値観で子どもを縛っていく。そして、それに従わなければ子どもが悪いんだとなる。そのようになってしまうのは「こうでなければならない」と親が親自身を縛っているからです。その縛りをもって子どもをも縛ろうとしているのではないでしょうか。

本来どんなことであれ、「こうでなければいけない」などというものはこの宇宙の中にはありません。宇宙の神は私たちに対して「こうすべきだ」と強制されるようなこともなければ、「これ以外は認めない」と縛り付けるようなこともされません。神は私たちに絶対的な自由意志を与えていらっしゃいます。

そのような自由が与えられているからこそ、私たちは自分らしく愛を表現できるとも言えます。不自由な中では、人は本当の意味で神の子としての自らの愛を発することができないものではないでしょうか。愛の表現には自由が必要であるということです。

もちろん、原因結果の法則の中で、自分が思ったことや、やったことの責任は自分で取っていかなければいけませんけれども、神はどんなことであってもその魂にとっての学びになるならということで、それぞれの自由意志を尊重されています。

ただ、この宇宙自体は圧倒的な愛に満ちたものであり、神ご自身が愛のエネルギーそのものでありますから、宇宙の愛に同調できないものはこの宇宙に存在できなくなっていくということも事実です。

自由というものは、愛の方向に発揮されたときに最も光り輝くものです。私たちの存在そのものが愛であり、愛の現れですから、考えてみれば当然のことなのですけれども、意外に忘れがちかもしれません。愛に反する方向に自由を発揮しても、それはそれで許されても、自分がただ不幸になっていくだけなのです。