愛とは赦し
前回、愛とは無心に与えるものというお話をしました。
愛というのは面がいくつもある宝石のように、一面だけで終わりというものではありません。
その一つひとつの面がすべて愛を表しているのです。
今回は愛とは「赦し」であるということについてお話しいたします。
「許し」と「赦し」の違いとは
まず「許し」と「赦し」がありますが、この違いはご存知でしょうか。
「許し」とは「許可する」という意味です。
例えば、何かをやってもよいと許可されるという、そのような意味合いです。
一方で、「赦し」というのは、犯してしまった罪や過ちを裁かないという意味です。
間違いを責め立てずに受け入れること。
それが赦しというもので、キリスト教の中でよく使われる言葉でもあります。
愛とはそのように相手の罪や過ちを裁かないということです。
人のことを裁かないで、ありのままを受け入れる。
それが愛というものです。
なぜ愛とは赦しなのか
なぜ愛とは赦しであり、裁かないものなのでしょうか。
それは、愛そのものである宇宙の神が決して裁くことなく、無限に赦され続けているからです。
私たち人間は完璧な存在ではなく、神に向かって成長、進化している発展途上の存在です。
ときには神の子としての道を外れたり、間違って罪を犯してしまうようなこともあります。
しかし、どんなに失敗したとしても、神がそれを咎め立て、責め立てるようなことは決してありません。
「私の子どもたちよ。失敗しても構わないから、それを自らの成長の糧として頑張ってほしい」と親のように温かく見守られているのです。
そこには裁くような思いは全くないのです。
罪や過ちを犯したことがない人など一人もいない
これまで生きてきて、その大小は問わず、一つも罪のない人というのはいないのではないでしょうか。
誰もが何かしら、心の中で振り返ってみれば、一度や二度は悪いことをしたことがあると思うのです。
それは警察に捕まるとかそのようなことだけを言っているのではなくて、端的に言えば、愛の思いに反することであります。
誰かを傷つけたり、苦しませたりしてしまったことの一つや二つは誰にだってありますでしょう。
もっと言うならば、今回の人生だけではないのです。
過去世において、罪や過ちを犯したことがあったかもしれない。
人間は一回きりの人生で終わるような儚い命ではなく、永遠に生き続けていく魂として命を与えられているのです。
その命の道の途中において、全く一つも罪や過ちを犯したことがない人などいないのです。
であるならば、自分も同じような失敗をしたことがあるのに、相手の犯した罪や間違いというものを裁けるような自分であるのか。
今はそのような段階はクリアして、学び終えた自分ではあるかもしれないけれども、だからと言って人を裁くようであれば、そこには愛などひとかけらもないのです。
むしろ、そのような相手の苦しさや辛さが分かる者として、それを受け入れ、寄り添い、支えていくのが本当の意味での愛ではないでしょうか。
ただし、私たちは罪を犯すことがあったとしても、決して「罪の子」としてつくられたわけではありません。
私たちは「神の子」としてつくられたのであり、その成長進化していく途中で、過ちを犯したり、失敗をすることもあるということなのです。
キリスト教では罪の子という言い方をすることもあるようですが、イエス・キリストは人間が罪の子であるとは一言もいっていません。
イエスも人間は神の子であると言われている。
そこは勘違いしてはいけないところだと思います。
人を裁くことなかれ。汝が裁かれんがためなり
私たちは自分のやったことは自分で責任を取らなければいけません。
自分の行いが自分に返ってくるという「原因結果の法則」の中で、その結果というものは自らが引き受けなければいけません。
ですから、ある意味で、裁く必要などないとも言えるのです。
そのような罪によって生じた結果というものは、自らが受け止めていくことになるのです。
それは他の人が代わりになってくれるものでは決してないのです。
イエス・キリストが言われた、「人を裁くことなかれ」という言葉にはその後に続きがあります。それは「あなたが裁かれないようにするため」というものです。
それはまさに原因結果の法則のことを言っているのです。
あなたが裁けば、今度はあなたが誰かから裁かれることになるのです。
無限に赦し続ける
神は私たちをはるか昔より赦されていらっしゃいます。
そして、これから先も永遠に赦され続けていかれるのです。
繰り返しになりますが、愛というのは赦しであります。
裁くことなく、自分も他人もあるがままに受け入れていくことなのです。