人は、どの目線でこの世界を生きているのでしょうか。
忙しさに追われ、速さを当たり前として歩いているとき、私たちは知らず知らずのうちに、他者の世界を通り過ぎてしまっているのかもしれません。
ある日、私は足を怪我し、思うように歩けなくなりました。
それは不便で、不自由で、けれど同時に、今まで見えていなかった世界へと私を静かに連れ出す出来事でもありました。
自分の「歩く速さ」を意識したことはありますか
みなさんはご自分の歩くスピードを意識したことはありますか。
私は歩くのがだいぶ速いほうで、以前会社の上司にも「お前は歩くのが早すぎる」と言われて笑われていたくらいです。
日常では意識しにくいのが自分の歩くスピードです。
しかし、それは生き方や価値観を映し出す鏡でもあります。
「爆速」で歩いていた私が、歩けなくなって気づいたこと
普段はそんな「爆速」で歩いている私ではございますが、最近足を怪我しまして、思ったように歩けなくなってしまいました。
少し足を引きずりながら歩かざるを得ないので、大変ゆっくりと歩かざるを得ません。
家から駅まで歩くのにも一苦労で、周りに私ほどゆっくり歩いている人はおりません。
ご年配の方々よりもゆっくり歩いている状況で、この街の中で一番自分がゆっくり歩いているだろうなと思いました。
そこで気づいたのが、当たり前のことかもしれませんが、やはり人間は自分がその身にならないと人の気持ちは分からないものだなということです。
街で一番ゆっくり歩く人になって見えた景色
私の妻などは歩くのが遅いほうで、一緒に歩いていると「歩くのおっそいなあ」と密かに思ったりすることもあるんですが(笑)、もちろんそんなことは口にしません。
私のほうでスピードを落としてできるだけ歩調を合わせるようにしているわけですけれども、妻はターミナル駅などの人混みの通路を歩くのもけっこう怖いと言っています。早足で多くの人たちが歩いているので。
私などは日頃仕事であちこち行ったりしていると、そのスピード感が当たり前になっているのですが、一時的だとは言え、これだけゆっくり歩かざるを得なくなると、今までとは違う目線で生きているわけです。
すると、ゆっくり歩いている人々の目線に合ってくるようになるんですね。
まさに歩調が合ってくる。
そうなると、その人たちがどんなふうにこの世界を見ているか、どんなふうに生きているか、どんなふうに考えているか。そういうことが不思議と感じ取れるようになってくるんですね。
「目線を合わせる」という愛のかたち
これは早く歩くほうが良いとか、ゆっくり歩くのは良くないとか、そういうことを言っているのではなくて、他者の理解に必要な心掛けである、ということです。
「目線を合わせる」ということ。
これを別の言い方では、「寄り添う」と言います。
やはり人間、自分中心では本当の意味で相手のことを理解したり、尊重したりできません。
これが悲しいかな、人間というのは相手の身になれるようになるためには、自分もその身になってみないと分からないことが多いということなんですよね。
しかしながら、自分がその経験をしていないことであったとしても、こちらから相手の目線に合わせる努力はできるわけです。
それも愛の一つの表現であると思いますし、人間としての器はどれだけ多くの人たちの目線に立とうとしてきたかによって大きくなり、広がっていくものであると思います。
最も高く、深く、広い目線とは何か
そして、目線ということで言えば、最も高く、深く、広い目線とは何でしょうか。
それは「神の目線」であります。
神の目線で見たときにはどうか。
もちろん私たちは神ではなく、神の子であり、神の一部として存在しているわけですけれども、神の思いがどこにあり、何をお考えになり、この大宇宙をどのように見られているか。
そして、どの存在をも、どの歩みをも、どれほど深い愛で包んでおられるのか。
その目線に、まずは今日一日だけでも、そっと歩調を合わせてみる。
神の目線に合わせて生きるという選択
神の目線を我が目線としたときに、自分は今どのような愛を生きることができるか。
その目線に常に立ち返る。
そこに目線を合わせて生きるということ。
それは不可能なことではなく、私たち一人ひとりに可能なことであります。
自惚れるのではなく、慢心するのでもなく、偉ぶるのでもなく、神から分け与えられた命を生きる者として、神の目線に合わせて生きる。
そこにこそ、私たち一人ひとりの喜びがあり、魂の成長があるのだと私は思います。
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