自殺は「逃げ」なのか
なぜ自殺がいけないのか。
その理由は色々と言われることがあるかもしれません。
自殺することが「逃げ」であると言われることもありますが、それは本当のことを知らない人が言うことです。
自殺というのは逃げなどではなくて「罪を犯すこと」に等しいのです。
自殺をすれば、今以上の苦しみの中に自ら突っ込んでいくことになるのです。
死んだらすべてが終わるという間違った思い込み
自殺することがなぜ逃げることだと思われるのでしょう?
それは、死んだら何もかも終わりだという考えから出てくるものです。
「逃げることだ」というとき、そこには辛さを放り出して楽になれるという思いが透けて見えます。
そこには「死んでしまえば無になるのだから、この苦しみもなくなって、すべてが清算されて楽になれる」という誤った思い込みがあるのです。
「今の苦しみから逃れたい」と思って自殺する人が大半だと思いますけれども、それは明らかに間違った思い込みでしかありません。
人は死ねばすべてが終わり、すべてがチャラになるような、そんな儚い存在ではないのです。
自殺をするために生まれてくる人は一人もいない
私たちは元々、この世に生まれてくるときに今回の人生で何を学び、何を課題とするかということに基づいて人生の計画というものを立ててきます。
それを「青写真」とも言いますけれども、一人ひとりが自らどのような人生を送るのかという計画を立てて生まれてくるのです。
そのときに、自殺を計画して生まれてくる人は一人もおりません。
自殺をするために生まれてくる人など一人もおりません。
それなのに、なぜ自殺が起こるのか。
それは、私たちには神から自由意志が与えられており、何を思うのも何をするのも本人の自由意志に任せられているからです。
しかし、ここで特に注意しなければいけないことは、自由意志には必ず責任が伴うということです。
自分がやったことの責任と償いは自らが引き受ける
自分が思ったことや行ったことの責任は、当たり前ですけれども、自分で引き受けなければいけません。
例えば、もし仮に殺人を犯したらどうなるでしょう?
刑務所に入って、その責任を償っていかなければいけませんよね。
「なぜ自分はあんなことをしてしまったのだろう。相手にも家族がいたかもしれない。自分に殺されなければ、もっと生きられたかもしれない。その人が持っていた多くの可能性というものをすべて奪ってしまった。本当に自分はなんてことをしてしまったんだろう」
そんなふうに自分を責めさいなむ気持ちに押し潰されそうになりながら、自らのやったことを反省し、償いをしていくことになるのではないでしょうか。
自殺をすれば地獄に行って今以上の苦しみを味わうことに
自殺もそれと同じなのです。
自殺というのは殺人と同じであります。
それは各宗教でも言われている通りです。
殺人を犯した人が刑務所に入って自らの過ちを振り返って反省するように、自殺した人は死んだ後に地獄に行って反省をすることになります。
そのようなことを知っていれば、自殺することが逃げなどではなく、むしろ死後に余計に苦しみや辛さが増すだけなのだということが分かるはずなのです。
それは誰かに裁かれるなどということではありません。
もちろん神に裁かれるということでもありません。
神は決して裁くことはありませんし、すべてのことを愛の中で赦され、温かく見守られています。
その苦難は必ず乗り越えていける
人は死んで終わりではありません。
死んだ後も私たちの命は続いていくのであり、魂というのは永遠に生き通しなのです。
それは、人間は自分自身から逃げることはできないということでもあります。
自分の置かれている苦しみの原因は自分が種を撒いたということ。
その結果を受け取るのは自分以外にはおらず、それに向き合うのも自分以外にはおりません。
人間は決して完璧な存在ではなく、多くの間違いや失敗をすることもあります。
でも、それでいいのです。
失敗しない人など一人もおりません。
その失敗から学び、何度でもやり直し、乗り越えていくだけの力が私たちにはあります。
そのために、私たち神の子には永遠の時間というものが与えられているのです。
その時の流れの中で、かつて苦しみだったものが苦しみではなく、いつか魂の糧となって昇華されていくものなのです。