霊的観点から見た臓器移植の是非とは

人生の悩み

臓器提供を受けることはカルマの刈り取りを妨げるか

肉体は永遠の命を持っている神の子が修行するために与えられているものです。

臓器に何らかの問題を持って生まれてくる人は、自らカルマの刈り取りとして設定して生まれてきていることがあります。

その場合に、臓器提供を受けることはマイナスなのでしょうか。

それは必ずしもそうとは言い切れないところがあるのです。

愛に満ちた思いかどうか

たとえば、自分の子どもをなんとか生かしたいという思いで親が臓器提供をするのは、自分を捨てた愛の思いであり、愛の行いです。

その臓器も、そのような愛の思いに満ちた状態で子どもの身体に移植されていきます。

ですから、子どもの身体が反発してしまい、合わないということも少なく、子どものほうの肉体としても受け入れられることが多いのです。

そのような状況をお互いに設定して親子になっている場合もあります。

子どもからすれば、親に対する感謝となるでしょうし、親にとっても自らの一部を差し出すことで子どもの命を救うことができるわけです。それは互いに愛を与え合う姿でもあります。

そのような愛の思いの中で、臓器を提供したり、されたりすることはお互いにとってプラスです。

提供する側の意識

家族に対する臓器提供でなくても、それが多くの方々の役に立ちますようにという祈りの思いで提供されていくのであれば、やはり移植されていくときにも拒絶反応が起きず、臓器自体も喜んで役割を果たしていく。

しかし、そのときに問題になるのは、提供する側の意識が、死んだら何もかも終わりだというふうに肉体から抜け出せず、しがみついているのであれば、逆に肉体の中にいる魂が大変な思いをしていくことになります。

ですから、本人もその方が喜ぶだろうと思い、勝手に親や周りの人が臓器を取り出そうとするのは、本人の魂が迷ってしまうことになります。

そういう意味では、誰かの役に立つのだからと言って、なんでもかんでも臓器移植すればよいということではないのです。

提供する本人も了解した上で、「どうぞ使ってください」という愛の思いがあってこそ、新たな肉体の中で、感謝をもって活かされていくものなのです。