求めれば与えられる
「求めよ、さらば与えられん」とはイエス・キリストの言葉であり、新約聖書のマタイ伝に出てくるものです。
現代社会においては、ことわざとしてもよく使われていますが、熱心に求めれば成果は自ずから得られるという意味です。
実は、この言葉には次のような続きがあります。
「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。 門を叩け、さらば開かれん。すべて求める者は与えられ、尋ねる者は見い出し、門を叩く者は開かれる」と。
求めなさい、そうすれば与えられます。
尋ねなさい、そうすれば見つかります。
門を叩きなさい、そうすれば門は開かれます。
こういうことが言われているわけですが、ここに一貫して流れているものは何でしょうか。
すべては思いから始まる
それは、まずは自らが求めなさいということです。
「こうしよう」「ああしよう」という自らの主体的な思いですよね。
最初にその「思い」が大切であり、その思いがなければ何も与えられることもないのです。
どんなことであっても、すべては思いから始まるということです。
それは逆に言えば、思わないことには何も始まらないということです。
その求める心が原因となって、その結果が自ずと現れてくるのです。
大宇宙の創造も神の思いから
大宇宙のすべては、原因と結果の連鎖により展開されてきました。
結果の前にはそれをもたらす原因が必ずあり、その原因から結果が生まれるという、考えてみれば当たり前のように思うかもしれませんけれども、それはこの大宇宙を貫いている法則であります。
それが「原因結果の法則」と言われますけれども、神が創造されたこの大宇宙において、神の法則、神の摂理として普遍的に流れているものであります。
神がこの大宇宙を創造されるにあたっても、「大宇宙を創造しよう」という神の思いがまず最初にありました。
もし神のその思いがなかったとしたら、決して今の宇宙も、神の子である私たちも存在していなかったことでしょう。
新約聖書のヨハネによる福音書には、「はじめに言葉ありき」という言葉がありますが、これも同じことを言っているのです。
世界の創造の最初には神の「言葉」、すなわち、神の思いがあったということ。
言葉というのは思いであります。
そのように、思いからあらゆることが始まり、それは大宇宙であっても、私たち一人ひとりの人生であっても同じであります。
思いと行い
そして、「求めよ」「尋ねよ」「門を叩け」というのは、思いがあって、その上で「行い」というものが必要であることを言っているのです。
あの世の霊的な世界においては思うことだけですべてが実現されます。
思い即行いであり、それらは分離している別々のことではありません。
「パンが欲しい」と思えばその瞬間にパンが現れ、「家を作りたい」と思えばその瞬間に家が作られ、「あそこに行こう」と思えばその瞬間にその場所に移動している、そのような世界なのです。
ところが、三次元のこの物質の世界においては、思ったことが即実現されるということはなく、やはり時間がかかります。
「パンが欲しい」と思っても、パン屋さんに買いに行かなければいけませんし、自分でパンを作るにしても小麦粉などの材料を手でこねて焼かないといけません。
誰かに「会いたい」と思ったら、やはり待ち合わせをしたり、電車に乗ったり、車に乗ったりして相手の家に行くなど移動しなければいけません。
そのように、この物質をまとっている世界においては、思っているだけでは実現されるものではなくて、それと合わせての行い、行動が欠かせません。
まずは心に思いを持つこと。
そして、具体的に行うということ。
その思いと行いの両方が大切なのです。
そうすれば、思い、願い、希望は自ずと実現されていくものであるということです。
求めているのに与えられない場合もある
求めているのにも関わらず、与えられない、叶わないということはあるのでしょうか。
結論から言うと、そのようなこともあり得ます。
本人がいくら望んでいることであったとしても、それが本人の魂にとってプラスにならないことであれば、実現しないこともあるのです。
例えば、障がいを持っている人が障がいを取り除いてほしいと願っているとします。
そのようなときに、それを求め続けることで障がいが消えてなくなるかと言えば、やはりそんなことはないわけで、障がいを持って生まれてきているということは、そのような肉体環境の中で自らが学ぶべきこと、果たすべきことがあるということです。
魂の計画として自らがそのような環境を設定し、用意してきたのであれば、それを取り除いてしまうということは、今回の人生を意味のないものにしてしまうことになりかねないわけです。
また、子どもが欲しいという願いなどもそうです。
子どもが欲しいのにできないということで悩み苦しんでいる女性も現代では多いわけですけれども、色々と手を尽くして努力をしても妊娠しないということには、やはりそれだけの意味があるのです。
子どもというのは夫婦生活をする中で、できるときには自然にできるのです。
でも、できない。
それは魂の計画において、今回の人生で子どもを授かる計画をしてきているかということもそうですし、子どもを授からないという経験を通して子どもを持てることの有り難みを深く学ぶということなどもあるのです。
やはりそれぞれの魂の転生輪廻の中での課題や学びというものがあります。
求めて、行い、あとは天に委ねる
ですから、どんなことであったとしても、必要なものは必要なときに必要に応じて与えられるということです。
与えられないからといって、それに執着し、こだわり続けるのであれば、それはまた心を曇らせ、人生を暗くしていく原因になってしまいます。
TPOとも言いますけれども、Time(時間)、Place(場所)、Occasion(場合)に応じて、必要なものは必ず与えられるということです。
逆に与えられないのであれば、それは今の自分にとって必要なものではないということ。
与えられるのも善し。
与えられないのも善し。
求めて、行い、あとは天に委ねるということ。
そのような姿勢で生きていれば、人生において何も恐れることなどありません。