ありのままの自分を受け入れる
「自分に自信がなくて思ったことを発言できない」
「自分の言ったことが間違っていたらと思うと何も言えない」
そう思っている人はけっこう多いのではないでしょうか。
最近、知り合いからそんな相談を受けたのですが、実は、以前の私もそうでした。
「自分は何もたいしたことなど言えるような人間ではない。だから、思ったことを発言するべきではない」
「間違って恥ずかしい思いをするくらいなら、何も言わないほうがいい」
そんなふうに思っていました。
しかし、あるときにふと思ったのが、「未熟な自分をそのまま素直に表現する」ということでした。
「自分が未熟な人間であることは知っている。自分の思ったことや考えたことなどたいしたことがないことも知っている。自分が何かを発すれば、自分がいかに未熟であるかも周りの人に知られ、評価が下がるかもしれない。それでも、人にどう思われても構わないから、自分自身を素直に表現しよう」
そう思ったのでした。
それは、別の言い方をすると、「ありのままの自分を受け入れる」ということでした。
相手のことも受け入れられるようになる
ありのままの自分を受け入れるようになると、不思議ですが、他の人も受け入れられるようになりました。
相手の落ち度や欠点が目についたとしても、「自分にも同じように落ち度もあるし、欠点もある。だから相手を責め立てるのではなく、目につく相手の未熟さを、自分の未熟さと同じように受け止めて、共に学びの途上にいる存在なんだ」と思うようになりました。
すると、不思議なことに、相手に対する怒りや腹立たしさというものも起きてこなくなります。
むしろ、仲間のような感覚で、同じときを生きている同級生のようにも思えてきます。
そして、もっと言うと、そのような相手が愛おしくさえ感じられてくるのです。
間違いを恐れ、人から後ろ指を指されることを怖がるのは、本当の意味で、ありのままの自分を受け入れることができていないのです。
自分を受け入れることができていれば、人からどう思われようと構わないと開き直ることができるはずです。
神の子としての素晴らしさを信じきる
「ありのままの自分を受け入れる」ということは、「自分という存在の素晴らしさを信じきる」ということでもあります。
「無条件に自分は素晴らしい存在だ」と信じられるかどうか。そのときに根拠となるのが、私たちはもれなく「神の子」であるということです。
どんなに未熟で、自信がない自分自身であったとしても、誰もが神の子です。神の子である限り、神から与えられた素晴らしさというものが必ず埋め込まれています。
この世界において、一人ひとりがかけがえのない存在であり、その人にしかない素晴らしさがあるのです。それは神から与えられた「個性」とも言えます。
神につくられた存在で、不完全なものなどあるでしょうか。素晴らしくないものなどあるでしょうか。それはないのです。
現時点ではまだまだ未熟な存在ではあるかもしれないけれども、神の子どもたちである人間は、神につくられたというただその一点において、かけがえのない素晴らしさというものを内包しているのです。
神の子でない人は一人もいない
それはある意味で言うと、「信仰心」とも言えるのかもしれません。
「自分自身は神の愛のエネルギーを分けてつくられた愛の存在である。だからどんなに欠点があり、間違いを犯してしまったとしても、その中から学びを得て、より成長進化していくことができる。そして、ありのままの自分を受け入れるということは、神からつくられた自分を受け入れ、その神に対する感謝というものをより多くの人たちを幸せにすることでお返ししていくことなんだ」と。
未熟であっても神の子でない人は一人もいません。
絶対的なる自信というのは、自分自身が神の子であるというところから生まれてくるものなのです。
神の子であると知ることによって、揺るぎない自信というものが生まれてくるのです。