私たちの魂に与えられている永遠の時間

永遠の魂

自分にはできないという思い込み

私たちは「自分にはできない。やれば失敗するに決まっている」と思って、やらないことも多いのではないでしょうか。

しかし、それが本当にできないことなのか。そのように自分で自分の力を縛って、発揮できないようにしているだけではないのか。そういうことはけっこう多いように思うのです。

それは自らの力を信じきれないことが理由の一つだと思うのですけれども、なぜ信じきれないのでしょうか。

十年ではできないことも、千年、一万年と時間をかけて挑戦できる

一つには、それまでの経験上、やってみたけど失敗したことがある場合、やはり次も失敗するのではないかと思い、臆病になってしまう。過去の失敗が頭をよぎって踏み出せない。それはある意味では当然のことだと思います。失敗すれば傷つくことも多いですし、もう二度と同じような傷は負いたくないと思うのが人間心というものです。

ところが、失敗というのはそこから学びを得れば、失敗ではありません。本来の目的はまだ達成されていないかもしれないけれども、新たな学びを得たということは、そこに向かって一歩でも二歩でも進んでいて、それは向上、進化していることを意味しています。

そのように捉えることができれば、自分にとって確実にプラスになっていることに気づくと思います。そのプラスになった経験と、勇気を持てば、何度でも挑戦することができる。その繰り返しが自らの力となり、今すぐにできなくとも、いずれは必ずできる。

いずれというのは今回の人生でなくともいいのです。今回、生きているときにできなくとも、また来世というものがあります。人生というのは一回限りではありません。十年ではできないように思うことも、千年、一万年と時間をかけて、何度も生まれてきて取り組めば、できるような気がしてきませんか? 私たちに与えられている時間というのは永遠であり、限りがあるものではないのです。

それを思えば、できないことなど一つもありません。失敗と思えることもすべてが一つの進化、向上のプロセスの中にあり、魂の肥料となっているのです。

過去世における経験が魂の叡智として蓄えられている

そして、二つには、これは先ほどの永遠の時間を生きていることとも関わりますけれども、自らが何者であるのかを知らないということがあるように思います。

人間というのはたまたまこの世に生まれてきて、何十年か生きて死んでいく、そのような儚い存在だと思っている人もいるかもしれません。現在の人生の中で学んだことがすべてであり、その中で考えれば、自分など全く価値のない人間としか思えない。そういう人もいるかもしれません。

ところが、私たちの人生経験というのは、今の人生だけがすべてではありません。今回生まれてくる前にも、異なる時代に、異なる環境のもとで、別の人生を生きてきたのが私たちであり、心の中にはそのときの経験がすべて残っているわけです。

今そのときの記憶を思い出せなかったとしても、魂の経験、記憶というものが心の中には埋まっており、多種多様な、何百、何千、何万という経験を経た上で、今という人生があります。「自分にはそんなことはできない」と思い込んでいることが、実はすでに過去世において、何千年前、何万年前にやっていたことだったということもあるのです。

過去世における数限りない経験からすでに多くのことを学び、魂の叡智となったものがそれぞれの心の中に埋まっております。それを仏教的には「パーニャパラミタ」とも言いますが、そのような魂の学びを生かし、応用していけば、今回新たに直面しているように思えることも解いていくことができるはずです。

魂は永遠の時間の中で何度も生まれ変わり、進化、向上している

まとめると、私たちは一回切りの限られた人生を生きているのではなくて、永遠の時間の中で、過去何度も何度も色々な経験をし、その叡智というものが魂の中に蓄えられている。失敗に思えることも、何度も生まれ変わってやり直すことができる。そのようにして、私たちの魂というのは進化、向上の道をたどっているのです。