転生輪廻が意味するもの〜私たちはなぜ生まれ変わり、何を学んでいるのか〜

この世とあの世

生まれ変わりはあるのか、ないのか

人が生まれ変わることはあるのか、ないのか。

古今東西で様々な研究や議論、考察などはあるかもしれません。

でも、そんなに難しいことでも複雑なことでもないのです。

私たちはこの世に生まれてきて、死ねばあの世に帰っていきます。

そして、しばらくすると、またあの世からこの世に生まれてきて、あの世に帰っていく。

そのようなサイクルを繰り返しているのが事実なのであります。

それが「転生輪廻(てんしょうりんね)」というものです。

今回はその転生輪廻の意味についてお話してみたいと思います。

もし江戸時代に生まれていたら

この世の世界の時代はどんどん移り変わっていきます。

現在の私たちは2000年代の社会を生きていますが、例えば、それが数百年前の江戸時代であったならばどうでしょうか。

その生活環境や科学技術も、また、人々が認識している世界の範囲も全く現在とは異なるものに違いありません。

今は地球という一つの惑星規模でグローバルに物事を見られる時代になっていますが、江戸時代の日本に生まれていれば、当時はそれぞれの藩が一つの国のようなものであります。

人々が日頃意識している世界の規模というのは一般的には自分たちが住んでいる藩程度の大きさだったのではないでしょうか。

徳川将軍家と大名と家臣という封建社会の中で、身分制度としては士農工商というものがあり、経済においては貨幣もありましたが、年貢米という米が基盤になっている時代でした。

それは、だから学びが少ないということではなくて、やはり江戸時代であれば江戸時代という環境の中でそれぞれ学べたことがあるということです。

つまり、何が言いたいかというと、生まれた時代環境の中での経験を通して得られる魂の学びがあるということ。

どのような経験であっても魂にとって無駄なものは何一つありません。

魂の進化、成長という観点で、転生輪廻の仕組みが非常に大きな意味を持っているのです。

それぞれの文明における地球人類の学びがある

今は江戸時代ということで申しましたけれども、さらに大きな時間の流れにおいては一つの文明という単位での特色があります。

現文明の一つ前はアトランティス文明と呼ばれていますけれども、今からおよそ一万年前に大西洋の海中に没した文明です。

そのアトランティス文明だけではなくて、これまで地上には数多くの文明が起こっては終焉を迎えてきました。

それぞれの文明の各時代においてもやはり私たちは転生輪廻を繰り返し、その文明の特色の中で様々な学びを得ています

地上にどのような文明を起こし、どのような学びを人類のテーマとするか。

それは地球では九次元霊と呼ばれる方々が天上界で企画をして形作られているのです。

そのような学びの環境を用意いただいて、私たち地球人類は時代や文明を越えて数えきれないほどの生まれ変わりをしながら、魂の成長を果たしているのです。

人種や宗教、立場を変えて人間は生まれ変わっている

私たちは時代や地域を越えてこの世に生まれてきます。

それは異なる人種や宗教、文化、立場、性別などをすでに経験しているということです。

今は日本に生まれていて、アジア人、東洋人として、その文化の中で生きている人であっても、これまでの魂の歴史において西洋に生まれたことはなかったのかと言えば、そんなことはないのです。

やはり西洋の国に生まれたことがあり、その文化圏の中での物の考え方や視点を学んでいるのです。

東洋と西洋というふうに大きく分けたとき、東洋は内に向かい、西洋は外に向かうと言えます。

地球の中では、東洋が内に向かう陰のエネルギーの場であり、西洋が外に向かう陽のエネルギーの場であると位置づけられているのです。

それは、それぞれの地域で起きている宗教から見ても分かるように、東洋では仏教や儒教など、一言で言えば、内面を整えるということに重きを置いています。

自らの内側に入り込んでいくわけです。

一方、西洋ではキリスト教やイスラム教などは神と自分との関係、つまり信仰が土台としてあります。

そこでは外に向けて積極的に神の愛を流していく、神の教えを広げていくことが是とされているわけです。

もちろんそう簡単に単純化できるものでもなくて、東洋、西洋のどちらの教えにも通じるものもありますし、仏教も儒教もキリスト教もイスラム教も神の教えであることに変わりはありません。

それらは一つの神の教えの様々な側面がそれぞれの救世主の個性を通して説かれているものなのです。

天上界は一つであります。

彼らはみんな仲間であり、私たち人類を導く先生たちであります。

私たちは転生輪廻を繰り返す中で、それぞれの宗教に触れて学びを深めているのです。

その中で一つの宗教だけしか学んでいないということはなく、例えば、今の人生ではキリスト教徒の人であったとしても、過去世においては仏教徒であったり、イスラム教徒であったりするわけです。

魂の学びの幅はそのようにして広がっているものであり、特定の宗教だけしか学んでいないという人はいないのです。

ですから、宗教の違いによって争うことは無意味なこと極まりないのです。

カルマを刈り取るための人生計画

それぞれの人にとっての転生輪廻は、カルマの刈り取りという面でも大きな意味があります。

カルマとは過去世からの魂の宿題です。

過去世の人生の中での愛に反する思いや行いがカルマとして持ち越されて、魂の課題になっていることがあります。

次の人生以降でそれと向き合い、カルマを返していくことになるわけですけれども、そのために人生の計画を立てて生まれてきます。

その魂の課題を乗り越えるために必要な環境や状況、肉体、人間関係などを事前に計画し、この世でそれに再び向き合っていくのです

十人いれば十通りの魂の課題があるわけですから、一概には申し上げられないわけですけれども、例えば、前世において親子関係が悪く互いに傷つけ合い、苦しめ合うような人生を送った人たちであれば、どのような形でカルマを返していくでしょうか。

それはやはり再び親子として生まれて、今度こそは助け合い、互いに幸せにしていけるかどうかを自分たちに問うような人生を設計をしてくるでしょう。

つまり、魂の課題が生じた当時の人生と同じようなシチュエーションを用意するというケースもあるということです。

それで試験を受けているようなものなんですね。

それを通さなければ、本当の意味でその課題をクリアできたとは言えないわけです。

また例えば、前世において差別をする側で人々を苦しめてきたのであれば、今世は差別をされる側の苦しみを味わう環境に身を置くことによってカルマを返していくということもあります。

自らの神性が自らの思いや行いを裁く

もし人生の中で、自分の目の前に繰り返し繰り返し立ち現れてくる同じような困難や苦労があるとすれば、もしかしたらそれが魂として向き合わないといけない課題なのかもしれません。

目を背けて一度はそれから逃げられたと思っても、それがカルマとして向き合わないといけないことであれば、また時を経て必然的に何度も同じような状況がやって来るのです。

その意味で、自分自身からは逃げられないということ。

カルマというのは罰を受けるとかそういうことではなくて、神の子としての自らの心が申し訳ないことをしたという思いで自分自身を裁いているのです。

神が私たちを罰したり、裁いたりすることは決してありません。

自らの神性が自らの思いや行いを照らし合わせたときに、その神性に反するところがあって苦しむのです。

そのときにやはり何らかの形でその償いをしないと申し訳ないという気持ちが出てくるのです。

心というのは本来丸い光そのものですけれども、自ら影を作ってしまった部分があって、そこが魂としての課題になっているということです。

その影の部分を浄化するために、人生の中で様々な苦しみという形をとって現れてくることがあります。

例えば、病というのはそういう側面もあるのです。

大病や難病を計画してきて、その肉体の大きな苦しみを通してカルマを返していくというケースもあります。

そのようにして魂に溜まった膿を出すということです。

膿を出しきったのであれば、これからはもう同じような膿は溜めないように愛の思いで光り輝いて生きるということ。

転生輪廻を繰り返して学んでいるのは愛である

結局のところ、私たち一人ひとりが転生輪廻を繰り返して魂の成長、進化を果たしているということは、愛の学びを深めているということに尽きるのです。

愛というのは一言で言うのは簡単ですけれども、その奥深さや幅の広さ、認識の度合いにおいても広大無辺なものであります。

愛というのはただ知っているだけでは何の意味もなさないのです

それを実践することができるかどうか

具体的な行動として表すことができるかどうか

どれだけ分かったと思っていても、実際にこの三次元の物資の肉体という非常に制限されたものの中に宿ってそれをなせるかどうかと言うとなかなかうまくいかないのです。

例えば、愛とは分かち合いであると頭では知っていても、実際の人生の中の行いを見たときにどうでしょうか。

分かち合うのではなく独占をし、周りに困っている人たちがいるにも関わらず自分だけで溜め込んでいる姿がもしあったのであれば、本当の意味では愛を分かっていなかったよねということになりますよね。

そのような類のことが数え切れないほどたくさんあって、だからこそ「今後こそは」と言って私たちはまた地上に生まれてくるのです。

私たちは愛というただ一点を学び続けているけれども、まだまだわかっていないことのほうがはるかに多くて、その道は果てしなく続いているのです。

その中で、今の自分たちの学びの習熟度や位置によって、それぞれに応じた環境が与えられているということです。

愛の学びの場は地球だけではなく大宇宙に広がっている

その愛の学び場というのは、地球だけではありません。

愛という一つの軸の中で進化の度合いはそれぞれ異なっていたとしても、他の惑星においても他の銀河においても、やはりすべてが愛の学び場であり、それぞれに使命と役割があるのです。

今の地球というのは宇宙の中では小学校レベルの惑星であり、これから中学校レベルの惑星にステップアップしていこうという時期に入っているわけですけれども、小学校の学びを終えた人たちは中学校に上がった地球で次の学びに進む人たちもいれば、地球を卒業して今度はまた別の星に移っていく人たちもいますし、母星に帰っていく人たちもいます。

小学校レベルの学びをクリアできないという人たちは、学び直しということで幼稚園レベルの星に移っていく人もいるわけです。

宇宙全体が一つの愛の学び場であり、愛の表現の場であるのです

そのようにして、神が創られた大宇宙の中で、それぞれの惑星や銀河を越えて移動をしながら、転生をしながら、神の子である私たちは無限の愛の学びを深めているのです。

そして、その行き着く先というのは神のもとであり、神から分かたれた私たちが神のもとへ帰っていく永遠の旅というものを続けているのです。

神の愛のエネルギーと一体化し、同化していく道を歩んでいるのです。