神の子としての愛が花開くとき

神の子

法は宇宙で普遍的なもの

前回、「法」についてのお話をいたしました。法とは、この宇宙を貫く普遍的な法則であり、正しい秩序、理であります。「神理」とも言われるものです。

法は自然の中にその姿を見ることができ、水が低きに流れ、蒸発して雲となり、また雨となって地上に降り注ぐという循環。そこに秩序が生まれ、調和が生まれる。

法は宇宙において普遍的なものですから、ある意味において、どんな惑星であっても一つであると言えます。銀河を越えても一つであります。この宇宙の中で一つであるということです。

愛が各惑星に展開され応用されていく

それは地球には当てはまるけれども、金星には当てはまらないということはありません。地球でも、金星でも木星でも、根本的な法は一つであります。

それは大宇宙に流れている神の愛のエネルギーにおいて、「愛」という言葉でまとまっているものであります。

愛というものが各惑星に展開しているのであって、さらにその惑星の中で各地域や各時代、各文化に様々な表れ方をして応用されていくものです。

愛の一つひとつの側面を学んでいるのが私たちでありますけれども、その一つの側面だけが絶対的なものなのではなくて、愛とはもっと自由自在なものであります。

一面的な部分だけをもって正しさを強要するようなものは本当の愛とは言いません。

神の子の数だけ愛は自由に花開く

矛盾しているように聞こえるかもしれませんけれども、ある意味では、愛という根底につながるものがあった上で、神の子の数分だけ法はあるとも言えます。

一人ひとりが神の愛のエネルギーを実感し、体感しながら、自らの魂に正直に生きたときに、そこに法が花開いている。愛の中には自由というものがあって、それはそれぞれの個性を押さえつけたり、押し潰すようなものではありません。

そして、その自由があるからこそ、責任が生じるということでもあります。それは、どのような貢献をこの世界の中で、この宇宙の中で神の子として果たしていくのか。

神の子としての自覚と責任

これまでは自分が神の子であり、神の一部であることも知らないまま生きてきた人が私も含めて大半であると思います。

ですから、他人を害さない限りは、それほどの責任は問われなかったかもしれないけれども、自分が愛のエネルギーを分け与えられた存在であると気づく中で、愛が表現され、創造がなされていきます。

そのような時代がこれからの地球にやってくるときに、そのことに気づけず、自我我欲に振り回されて生きていくならば、神の子の自覚に至っていない者として本人の学びにあった修行段階の惑星に戻されていくことになるのです。

それも波長同通の法則の通りで、地球が次のステップに進んだのならば、その段階に波長が合わない人は地球にはいられないということであります。それは差別的なものではなくて、エネルギーの法則としての事実でもあります。