ピュアであることの大切さ
ピュアであるということは、どちらかと言うとネガティブな意味合いで取られることが今の世の中では多いかもしれません。
ピュアであればあるほど、幼いという、成熟していない証だと捉える人もいるかもしれませんが、これからの時代はいかにピュアであるか。それが本当に大切になってくるように思うのです。
赤ちゃんの無邪気な姿に象徴されるもの
ピュアであることの一番の象徴は何だと思いますか。それは赤ん坊が無邪気に笑っている姿ではないでしょうか。
私はスタバが好きでよく行くんですけれども、この前レジに並んでいたときにそばの席に座っていたお母さんが赤ちゃんを抱いていて、その赤ちゃんに笑いかけていました。
赤ちゃんのほうは本当に無邪気にそのお母さんの笑顔に反応して笑っていました。その様子を見ていて、こちらまで自然と笑顔になってしまうような、赤ちゃんの純粋さというものを感じました。
ピュアであるとは混じりけがなく純粋であるということです。気取ることなく、素直にそこに存在している。不純なものを感じさせない、まるで天使のような姿とも言えるかもしれません。
ピュアでなければ天国には入れない
イエス・キリストは、心を入れ替えて子どものようでなければ天国には入れないと言われました。
それは何を意味しているのかと言うと、天国にいる人たちは幼子のようなピュアな心を持っているということです。そのような心境でなければ天国には行けないし、天国にはいられないということです。
幼い子どもたちは本当に素直で、疑うということもなく無心であると言えます。驕りたかぶることもなければ、恐怖もありません。
「類は友を呼ぶ」と言われるように、天国にいる人たちは誰もがピュアな心を持って存在している人たちです。純粋さは純粋さを引き寄せ、人を騙してやろうとか、傷つけてやろうというような人は天国にはおりません。
あの世からこの世に生まれてくるときは、地獄から生まれ変わってくることはできませんので、誰もがみんな天国からこの世に生まれてきます。
この世でどんな悪人に思えるような人であったとしても、神の子でない人は一人もおりません。その心の曇りを取り払えば、内側には燦々と輝く神の光が隠れているのです。
心の曇りを取り払えばその中から光は溢れ出す
自由意志の中で魂の曇りをつくってしまったとしても、自ら反省してその曇りを取り払えば、いくらでも本来の神の子としての光を発することができるものです。
ピュアであるとは神の子としての光がむき出しになって、ありのままに輝いて存在していることです。元々、私たちというのは神の分光です。神から分かれた光そのものであり、ピカピカ光り輝いている存在です。
私たちが何を思い、何をするのかは、神は私たちに自由意志を与えられて、愛の思いで温かく見守られていらっしゃいます。その光を曇らせてしまうのは他でもない私たち自身です。
しかし、神より与えられた光を自ら曇りで覆ってしまったとしても、自ら反省してその曇りを取り払えばまた光は溢れ出てくるものです。なぜなら、私たちの内側には本来、ピュアな光しかないからです。