謙虚であることの大切さ
私自身、謙虚さを常々忘れないようにしたいと思っていますが、気を抜くとすぐに思い上がる気持ちが出てきます。
「これはマズイな」と思ったときにはすぐに思いを修正するようにしていても、また別のときには謙虚さを忘れていたりします。
それだけ謙虚であることは難しいわけなんですけれども、具体的にどのような状態であれば謙虚だと言えるのか。
今回は特に私が意識していることをまとめてみました。
感謝の心をなくしていないか
まず一つ目は、感謝の心をなくしていないかどうかということです。
たとえば、私たちは仕事が上手くいって成功したり、良い評価を受けるようなとき、それは自分自身の力で成し遂げたことであり、自分は他者よりも偉く、優れている存在なんだと思うようなことは、やはり人間なので多かれ少なかれありますよね。
ところが、そのように自惚れ始めたとき、そこにはもう転落の階段を転げ落ちていこうとしている自らの姿しかないと言えるかもしれません。
なぜなら、謙虚さを忘れたとき、人は傲慢になって思い上がり、感謝の心を失うからです。
たとえ自分の力で成功したと思えるようなことであったとしても、自分の力だけで成功するようなことは一つもありません。
社会の中で生きている限り、人は誰かに支えられて、周りの人たちの協力の中で上手くいっているのであり、その人たちがいなければどんな成功もありません。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉もある通り、成功している時ほど謙虚になり、「おかげさま」という感謝の心を忘れないことが大切なんだと思います。
自分の意見にこだわりすぎていないか
二つ目は、自分の意見にこだわりすぎていないかということです。
謙虚であるというのは、自分を偉いものと思わず、他人を敬い、他人の意見なども素直に受け入れる姿勢を持っていることです。
人が謙虚さを忘れて傲慢になると、自分の意見が絶対的に正しく、他人の意見は取るに足らないもののように思えてきます。
他人を見下すような態度になり、自分の考えにこだわり、それを絶対的なものとして押し通そうとしがちです。
それが良い意味での自信や確信であればいいわけですけれども、自分が絶対的な存在で、他の考えなどは受け付けないなどという姿勢であるならば、そこには謙虚さのカケラもないと言わざるを得ません。
「上には上がいる」ともよく言われますけれども、本当にその通りであって、どれだけ自分が優れた人間だと思っていたとしても、自分より優れた人たちは世の中にいくらでもいるものです。
その自らの位置、自らの小ささを知れば、自分よりも優れた人たちの声に素直に耳を傾けて、より成長していこうという謙虚な姿になるのではないか。
謙虚さを失うというのは、人が成長していくことを放棄した姿とも言えるかもしれません。
上手くいかないことが起きたときに自分に問題があったと反省できるか
三つ目は、何か上手くいかないことが起こったときに、他人を責めるのではなく自分に問題があったと反省できるかどうかです。
普通、なかなか人は自分の非を認めることができないことのほうが多いですよね。
失敗したり、ミスが発生したりしたときは誰か他人のせいにしたくなるものです。
たとえそのようなときであったとしても、すべては自分自身の責任であると受け止め、自分自身に何か至らないところがあって、このような結果が起きているのではないかと考えられること。
そのように客観的に自分自身の問題として反省でき、間違っていることがあれば相手に謝り、自らのあり方を正していく。
そのような人というのは、やはりかなり謙虚な人なのではないかと思いますし、他人を責めない、裁かないということが謙虚さにはつきものなのだと思います。
無私であるか
四つ目は、無私であるかどうかということです。
無私というのは「私が無い」と書く通り、自分がないということです。
それは別の言い方をするならば、自分が第一ではなく、他人のことを第一に考えるということです。
自分の幸せのためではなく、他人の幸せのために自分の時間を使い、命を使う。
そのように生き始めるとき、人は自分というものがなくなっていくものです。
多くの人々に奉仕する気持ちになってくるとも言えるかもしれません。
奉仕は嫌々するようなものではなく、義務感でするものでもなく、自発的にそのようにしたいと思う気持ちです。
他者の幸せのために生きるという利他の思いが心の中で大きくなってくると、他者の喜びや幸せが自分の喜び、幸せになってくるのです。
そのような状態になると、「自分が」という思いはどんどん小さくなっていき、まさに無私、無心の境地になっていきます。
見返りを求めていないか
五つ目は、見返りを求めていないかどうかということです。
たとえば、仕事がよくできたり、大きな成果をあげられる人は、自分がこれだけやっているのだから、それだけの見返りがあってしかるべきだと考えがちではないでしょうか。
自分はそれに相応しい扱いを受けていないと思い始めたとき、それは見返りを求めているということと同義です。
周りからどのような評価をされようとも、自分のやるべきことを淡々とやっていく。
人が動いてくれないと嘆くのではなく、自分から動いていく。
それは見返りを求めることなく、自分から与え続けていく姿とも言えるかもしれません。
神の前に謙虚であること
私たちは人間である限り、完璧な存在ではありません。
人間神の子ではあっても神そのものではなく、一人ひとり良いところもありますけれども、やはり未熟な部分も多々あるものです。
その意味では、謙虚さの行き着く先というのは、やはり神の前に謙虚であることだと思うのです。
この大宇宙をつくられた神の偉大さ。
宇宙のあらゆるものを生み出し、生かし、育まれている愛のお姿。
その圧倒的な愛で、宇宙全体を包み込まれている神の前に謙虚であること。
私たちは神の子であり、神の愛の一部、宇宙全体の一部でありますけれども、決して一部だけで、自分一人だけで存在しているわけではありません。
全体の中で生かされて、今存在することができている。
神により生かされていることへの感謝を忘れず、生きていくこと。
それが人間にとっての最も土台となる謙虚さとも言えるかもしれません。