神理が説かれるときに伴う三つの証

神理

神理が説かれるときに伴う三つの証〜「文証」「理証」「現証」〜

神理や法が説かれるときに、その証(あかし)として伴う三つのものがあります。

それは「文証(もんしょう)」、「理証(りしょう)」、「現証(げんしょう)」です。

「文証」とは文章として書かれていること

まず、一つ目の「文証」とは、文章として書かれているということです。教えの内容が文として書かれていて、書き残されていることです。

たとえば、インド時代に法を説かれたブッダですが、そのブッダの言葉や教えというものは文章として残されています。

ブッダの弟子たちがその教えを仏典結集としてまとめていますが、つまり、文章として書き残されているのが「文証」と言われるものです。

「理証」とは宇宙を貫く法則が論理的に明かされていること

そして、二つ目の「理証」というものは、理(ことわり)を明かしているということです。宇宙を貫く法則が論理的に説明されていること。筋道を立てて語られていることです。

イエス・キリストも、ブッダと同じように地上に生まれて救世主としての役割を果たし、法を説かれました。様々な言葉や教えを残されていますが、その中で理を明かしています。

たとえば、「汝人を裁くなかれ。汝が裁かれんがためなり。汝が裁くように汝もまた裁かれ、汝のはかったはかりで、汝もまたはかられるであろう」と言われています。人を裁くのはやめなさい、なぜなら、人を裁けばあなたが同じように裁かれることになるから、という意味です。

これはつまり、自分のやったことが自分に返ってくるということを言っています。それは「原因結果の法則」と言われる宇宙の法則であり、その法則について語っているわけです。

「現証」とは奇跡を起こすこと

そして、三つ目の「現証」というのは、見て分かる、感じて分かるような奇跡を起こすことです。つまり、奇跡のように思えることを実際に人々の前で起こすということ。

それはたとえば、モーゼが「出エジプト記」で書かれているように、イスラエルの人々を連れて絶対絶命の状況になったときに紅海を真っ二つに割って追っ手から逃れたということに象徴されています。

それはお伽噺やフィクションでは全くなくて、実際に当時の人々の目の前で起こったことであります。

「文証」「理証」「現証」の三つを伴っていることが神の使者の証明

これら三つの証は、その一つだけを伴っていればよいということではなく、そのウェイトの違いはあったとしても、三つとも兼ね備えているものです。

ブッダもイエスもモーゼも、それぞれの個性や得意なことはあるとしても、「文証」、「理証」、「現証」のすべてを伴い、法や神理を説かれていたことに変わりはありません。

神理を説き、述べ伝える人の真実性というものは、これら三つの証を通して証明されるものなのです。