質問:一人ひとりが神の愛の表現であるなら、なぜある人は愛深く共感的であり、ある人は愛がなく不誠実で残酷なのでしょうか。
回答:愛の道を選ぶのも、悪の道を選ぶのも、それぞれに委ねられているからです。
私たちは誰もが神の子として、愛の子として創造されましたけれども、ロボットではないのです。
それぞれがどのように生きるのか。
それは一人ひとりが神から与えられた自由意志の中で選び取っていくものであります。
画一的にこうでなければいけないということはないのです。
愛に生きることも、残酷に生きることも、それぞれの自由であります。
それを強制されることや押しつけられるようなことはないのです。
ただ、普遍的なのは、何を選ぼうともその結果は自分自身が引き受けていくということです。
大宇宙は圧倒的な神の愛に満ちており、私たち一人ひとりもその愛のエネルギーにより創造された愛のエネルギー体であります。
そのことに気づかず悪の道を行くこともできるけれども、その結果として苦しみ、衰退していくのは自分自身であるということ。
どのように生きるかということは、最大限に本人の意志が尊重されているのです。
元々、悪の子や罪の子として創られている人など一人もおりません。
どんなに悪の権化のような人であっても、その真っ黒になってしまった心の汚れを拭い去れば、またピカピカに輝く愛の心を取り戻していけるのです。
汚れた窓には光が通りません。
でも、その汚れを拭き取れば、また光は通るようになります。
それと同じなのです。
悪の道を行くというのは自分の心の窓の汚れを放置しているだけではなく、それを真っ黒のペンキで自ら塗りつぶしているようなものなのです。
その結果、どうなるのか。
光が入ってこなくなります。
光が入らないと寒くなり、気分は落ち込み、鬱々とし始め、絶望感が膨らんできます。
それは自分自らが光を遮っているのです。
そのような状態が続けば、どんどんそちらに引きずり込まれて暗闇の中に落ち込んでいくことになるのです。
それが地獄と呼ばれる世界であります。
そのような薄暗く寒い、不調和な地獄の世界を生きるのも、愛と調和に満ちた温かい天国の世界を生きるのも、その人の心次第なのです。
その人の心境に応じて、生きながらにして天国の世界を生きている人もいれば、地獄の世界を生きている人もいるということ。
天国や地獄はどこか遠いところにあるのではないのです。
その人の心の中にあるのです。
何を思うのも、何をするのも、私たちの自由意志に委ねられています。
その中で、地獄の世界に幸せなどないのです。
そこにあるのは愛に反する不調和であり、破壊と闘争であり、安らぎとは無縁の、常に何かに脅かされているような恐怖や苦しみの世界であります。
私たちが本当の意味で幸せになっていけるのは愛の道です。
それは自分たちが本来の自分たちに返っていく道であります。
そのための学びを、紆余曲折を通しながらも、魂に刻んでいるのが私たち一人ひとりであるということです。