「一人の人が三人いる」という感覚

この世とあの世

「一人の人が三人いる」

二十代の初め頃によく思っていたことがあって、それは「一人の人が三人いる」ということです。

そのようなことを言うと全く意味が分からないと思われると思いますが、実際、学生だった当時そのようなことを言っても周りの人に理解してもらえることは一度もありませんでした(笑)

なぜそう思うようになったのかは自分でも理由は分かりません。しかし、感覚的にずっと思っていたことで、「一人の人が三人いる」と。それは今となってはおそらく霊的な感覚だと思うのです。

普通は一人の人は一人ですよね。その人が同時に複数人いるということはあり得ないわけですけれども、これが霊的な世界においては全然可能なわけです。

一つの存在が同時に複数に分かれて存在できる

物質的な肉体を切り離して分裂していくことはできませんが、霊的な存在としてはいくらでも分かれて存在することができます。

一人の存在が同じ意識を持ったまま二人、三人と分化していくこともできれば、分化した三人がまた一人に統合することもできるのです。

それは三人に限らず、いくらでも何十でも何百でも何千でも分かれていけるものであり、そのように分かれたとしても一つの意識としてつながっている。

この地上で生きているとなかなかそのような感覚はありませんけれども、死んで肉体から離れて霊的な本来の姿に戻ればより実感していけるのではないかと思っています。

これは霊的な存在としての本質の一つだと思います。つまり、一つの存在が同時に複数の存在に分かれることができ、複数の場所に存在し得るということです。

それは分かれたり、まとまったりすることが自由自在にできて、そのような状態でも自らの意識が分断されることなく、統合されているということです。

千手観音は霊的な意味での姿を表している

一つの例として、「千手観音」と言われる仏像があると思いますが、手がたくさんついている仏像です。あの姿というのはまさに霊的な姿を表しているものだと思います。

普通は肉体の人間は手は二本ですから、何十本も何百本もあるというのはあり得ないわけですけれども、霊的な姿として見たときにはそれが可能なのであります。

手というのは仕事をすることを象徴していて、一人の人間が何十人、何百人分もの仕事をしているという意味が千手観音像に表されているのです。

霊的に言えば、その手の一本一本が離れて、場所や時間に関係なく同時に存在しながら仕事をすることができるという感覚です。

肉体を持っていても意識を分けることはできる

そのようなことは肉体を持っているとできないと思うかもしれませんけれども、そんなこともないのかもしれません。

確かに自分が今持っている肉体は一つしかありませんので、同時に肉体を使って複数の仕事をしたり、同時に別の場所にもう一人の自分を現したりすることは難しいかもしれません。

しかし、「意識」というものはいくらでも分けることができるのであって、Aの仕事をする自分、Bの仕事をする自分、Cの仕事をする自分というように意識を分けて、それらを統合している意識を持っていれば、同時に複数人の自分が存在しているという感覚に近いかもしれません。

ただ、それでも同時に複数のところに存在したりすることはできないので、やはりそれはそれで限界はあるのかなとは思います。

いずれにしても私たちは本来が霊的な存在であり、自分たちが思っている以上に自由自在な力を持っているのは間違いありません。

多重人格や統合失調症は霊的な憑依現象

ちなみに、多重人格や、以前は精神分裂病と呼ばれた統合失調症はこれとは全く別物であり、それらは一人の自分が複数人に分かれているのではなく、複数の憑依霊が一人の人に取り憑いていることから起こる現象です。

ころころと人格が変わったように見えるのは、複数の別の霊たちが取り憑いているからであり、自分が複数の人物に分かれているわけではありません。

それらの複数の霊たちの人格はもちろん別々なので、一人の人間の上にそれらが現れてくるとまるで個性の違う何人もの人に豹変しているように思えるわけですけれども、実際は異なる何人かの憑依霊が入れ替わり立ち替わりその人の肉体を通して現れているということです。

まとめ

「一人の人が三人いる」という思いがずっと感覚的にあって、それは霊的な感覚から来ているものだということで思うところを書かせていただきました。

一つの存在が同時に複数に分かれたり、一つにまとまったりすることが霊的にはできるということです。

「一人の人が三人いる」というのは、また別の意味で思うところもあるのですが、それはまた別の機会に触れたいと思います。