不調やスランプのときこそ、魂にとって大きな学びのチャンス

人生の悩み

織物の綾のように描かれる人生の好不調

人生には好不調の波があって、非常に調子が良く、やることなすことすべてが上手くいくという好調の時期もあれば、何をやってもさっぱり上手くいかないという不調の時期もあって、それがやはり波のように交互にやってくるものです。

ずっと好調が続くという人もいなければ、ずっと不調が続くという人もいないですよね。やはり織物における綾のように、様々な模様を描くのが人生というものなのかもしれません。

そのような波がある中で、不調な時期、落ち込んでいる時期にどう過ごすかということが、その後の人生に大きな影響を与えるのは間違いないんじゃないか。そのように思うのです。

「内面を見つめなさい」というメッセージ

結局のところ、不調の時期が何のためにあるのか。それは自分自身の内面を見つめるためにあるのです。つまり、不調の時というのは「内面を見つめなさい」というメッセージだということです。

自分の周りで物事がスムーズに回らず、調子が悪いときにやってしまいがちなことは、一刻も早くその苦しみから逃れるために、なんとかその状態を解決しようと動き回ったり、周りに働きかけたり、何かを変えようとしたりすることです。

しかしながら、不思議なのですが、そういうときはもがけばもがくほと上手くいきません。ややもすると、動けば動くほど逆にどんどん悪い方へ行って、事態がどんどん悪化してしまったりします。

そういうとき私たちは自分の外側の世界をなんとかしようと必死になりがちなんですけれども、不調のときはそうではなくて、「内側に入りなさい。内側に入って自分の心を見つめなさい」ということなのです。

不調の時こそ深い学びを得られるチャンス

何もかも順調で、幸せに充実した日々を送っている好調のときには、普通は自分の内面を見つめるなんてことはしないのであって、立ち止まることなくどんどん進んでいきます。

自分の思った通りに物事が展開していきますから、外側のことに気を取られて、自分自身を見つめるチャンスというものがほとんどないのです。

それがあるときパタっと止まるときが来る。それはたとえば、病気になって入院するということを考えてみると分かりやすいかもしれません。それまで毎日忙しく駆け回って仕事をしていた人が、急に倒れて病院に運ばれて入院することになったとします。

それまでは何の不安もなく順風満帆でやってきたのに、しばらく入院することになって、回っていた歯車がパタっと止まってしまった。そして、それまで家族のことも顧みずに働いてきたつけがやってきて、家族にも見捨てられて別れを告げられる。

ドラマか何かにありそうな展開ですけれども、急に一人ぼっちになって、病院のベッドでそれまでの自分の考え方や生き方、働き方などを振り返らざるを得なくなるという、これはかなり極端な例ですけれども、実際それに似たようなことは大小問わずよくあるわけです。

そのようなことになれば本人にとっては大変辛いんですけれども、そのような痛みを伴わないと心からの気づきや深い学びにならないということも事実なんだろうと思います。

自分ではない誰かのために生きる

私自身のことを振り返ってみても、非常に不調な時期と言いますか、苦しい時期というものがありました。

それは、自分が何のために生まれてきて、何のために生きているんだろうという人生の意味と目的が分からずに悩み苦しんでいた時期がありまして、特に二十代の前半から半ば過ぎまで、人間とは何なのか、何のために存在しているのかという問いかけの中で日々を過ごしていました。

その時期にちょうど児童養護施設などにボランティアで行っていたことがありまして、子どもたちと一緒に歌を歌ったり、紙芝居をしたり、ダンスをしていたことがあったんですけれども、そこにいる子どもたちは何らかの理由があって親と一緒に生活できない子たちがほとんどなので、やはりみんなそれぞれ寂しさや悲しさ、不安や不満を抱えている子どもたちが多かったんですね。

そのような子どもたちが少しでも笑顔になってほしい、明るい心になってほしいと思って、ボランティアで行っていたんですけれども、そのような思いで子どもたちに接していると、子どもたちの顔が明るく変わるんですね。

帰り際になると、「また来てほしい」と言って子どもが足にくっついて離れなくなったり、いっときのことかもしれませんけれども、子どもたちも幸せな気持ちになっていることが感じられたものでした。

そういうことが続いて気づいたのは、それまでの自分は自分のために生きていたんだなということです。自分が幸せになろうとして、自分のために努力をし、自分の幸せのためにだけ生きていたわけですけれども、それだと全然幸せにならないということです。

子どもたちから教えてもらったことというのは、誰かの幸せのために生きると自分自身も幸せになるということです。子どもたちと一緒に遊び、接する中で、自分ではない他の誰かの幸せのために生きたとき、非常に心が満たされて、幸せが満ちてきて、大きな充足感が湧き上がってくるということです。

そのような気づきや学びが得られたのは、やはり自分が苦しい、悩んでいる日々があったからこそ気づけたことであって、もしその当時に順風満帆な人生を送っていたら何も気づけなかったんじゃないかと思います。

人生のすべてはプラスになる

児童養護施設で子どもたちに教えてもらったことは、その後の人生においても非常に大きな意味を持った学びでしたし、今となってはあのときの学びがあるからこそ今の自分があると思っているほどです。

人生の中で苦しい時期、落ち込んでいる時期、不調の時期というのがやはりあると思います。でも、そのようなときこそ、大きな学びや気づきの機会であり、チャンスがやってきているということです。

そのように捉えることができれば、人生で起きるすべてのことはプラスになり、怖いものなど何もないと言えるのではないでしょうか。