一即多、多即一とは
「一即多(いちそくた)、多即一(たそくいち)」という言葉があります。
これは仏教などで説かれているもので、一でありながら多であり、多でありながら一であるという意味です。
これだけ聞くと、わけが分からないと思えるかもしれません。
一本のにんじん
例えば、一本のにんじんがあるとしましょうか。
カレーとかシチューを作るときには一本のにんじんを乱切りにしたり、サラダに入れるときには千切りにしたり、そのようににんじんを切って色々と料理しますよね。
そのように切って細かく無数になったにんじんであっても、にんじんには変わりがありません。
切られてバラバラになったものは、もうにんじんではないなんてことはないわけです。
カットされたそれぞれのにんじんであっても、当たり前ですが、その中にはにんじんの甘みや栄養が同じように詰まっていて美味しいですよね。
そして、色々な形に切られたにんじんも、すべてをまたつなぎあわせれば一本のにんじんになります。
料理であれば、にんじんを一本に戻すようなことはせずにそのまま食べてしまうわけですから、普通はそのようなことはしませんけれども、つまり、元々は一つのものがそのように複数に分かれてもそれぞれが同じものの一部として存在しているということ。
そして、複数に分かれたものであっても、それらは一つのものとしてつながっているということ。
それが一即多、多即一という言葉が表しているものなのです。
私たちは百にも千にも万にも分かれられる
今は分かりやすいように、にんじんを例にしましたが、これは私たちという存在についても同様なのです。
自分というのは一人しかいないと思っているかもしれませんが、それはこの物質の肉体にとらわれた考え方であって、本来の霊的な姿からすれば百にも千にも万にもいくらでも分かれることができるのです。
私たちは魂という愛のエネルギー体であります。
そのエネルギーの一部が肉体に宿ってこの世に生まれてきています。
一つの肉体しか持っていないので、自分というのは一人だと思い込みがちなんですれども、本当はそうではないということなのです。
例えば、あの世においては今コーヒーを飲んでいる自分、今友人と話をしている自分、今ウォーキングをしている自分というふうに、同時に全く別々のことを同時並行で行うことができるのです。
一人の自分が文字通り複数人に分かれることができ、複数に分かれているすべてが自分であるという認識を持てるのです。
姿や形なき個性あるエネルギーそのもの
この世で物質の肉体を持っていると不可能だと思えるようなことが、霊的な世界においてはいくらでも可能であります。
ただ、あの世であっても、自分たちにはそのようなことが可能であるという認識を持っていないとそのようなことができません。
死んで肉体を脱ぎ捨てた後も、あの世に帰ってからこの世の延長線上で、この世と同じような生活をしている人たちもいらっしゃいます。
また、姿や形なき個性あるエネルギーそのものとして存在している人たちもいらっしゃいます。
自らを無数に分かれていくことは誰であっても本来可能なことではありますが、そのためには自分たちがそのように融通無碍なる自由自在なエネルギー体であるという認識を持っていることが必要なのです。
SNSでの複数アカウント運用
一即多、多即一をこの世的にさらにイメージしやすいもので言うとすると、例えば、SNSなどのアカウントを思い浮かべてみていただくと分かりやすいかもしれません。
同じSNSであっても、一人でいくつも複数のアカウントを持っている人もいらっしゃると思うんですね。
私もX(Twitter)などもやっていますが、日本語と英語の二つのアカウントを持っていて、アカウントごとに発信内容を分けていたりします。
また、Instagramもアカウントを持っていますが、そこではまたXなどとは異なる内容を投稿しています。
そんなふうに、人によってはAというアカウントでは趣味のこと、Bというアカウントでは仕事のこと、Cというアカウントではプライベートのことなどというように、それぞれのアカウントを切り替えてテーマや内容を分けて投稿し、それに関わる人たちと交流しているということがあると思います。
しかし、アカウント名やプラットホームがそれぞれ異なっていても、運営者としては一人であり、アカウントAもBもCも自分という存在で統合されて、一つの意識にまとめられる。
こう考えてみると、一人の人がその意識や仕事に応じて複数に分かれて機能しているということでもあります。
千手観音の姿に見る一即多、多即一
一即多、多即一というのは、この地上的な観点で言うならば、様々な仕事をいくつも掛け持って同時並行で推進しているスーパーマンのような人と言ってもいいかもしれません。
また、そのような姿として表現されている仏像が千手観音と言われるものですよね。
手がいくつも付いているというのは、それだけ他の人よりもたくさんの仕事を同時にこなせて、より多くの人たちを救っていけるということを表しているのです。
物質の肉体としては普通は二本の手しかないわけですが、霊的にはあのように何本もの手があるような状態に等しいのです。
それは一本一本の手がそれぞれ独立して、それぞれが意識を持ち、その役割と機能を果たしているようなものであります。
そうなるともう一人の人間ではなく、複数人に分かれて存在しているのと変わりません。
大宇宙に存在するすべてが神の現れ
一即多、多即一は、一でありながら多であり、多でありながら一であることだと申しました。
それは、この大宇宙に存在するすべてのものが神の現れであるということです。
神とは大宇宙に満ちる愛のエネルギーそのものであります。
その神の愛のエネルギーを分けられ、唯一無二なる個性をそれぞれに与えられている存在が私たち一人ひとりなのです。
それは人間だけではなく、動物であっても植物であっても鉱物であっても、あの夜空に浮かんでいる星々であってもそうなのです。
すべてが神の一部として、神の子として、多種多様な愛の表現体として存在しています。
大宇宙の中ですべてのものが一つにつながり、神の大きな意識体を構成しているということなのです。
あなた方は私であり、私はあなた方である
大宇宙を創造された神は、私たちに向けて「あなた方は私であり、私はあなた方である」という言葉を残されています。
私たちはすべてが一体であるということ。
一体でありながら、一人ひとりがそれぞれ宇宙の神の現れであるということ。
それは「ワンネス」と言われることもありますけれども、すべては一つにつながっているということです。
一部は全体の中に息づき、全体は一部の中に息づいているということです。
一即多、多即一とは、究極的には神と私たち神の子の姿、そして、その関係性を示しているものでもあるのです。