先日、韓国に行ってきました。
韓国での写真はInstagramのほうにアップしていますので、是非そちらを見てほしいのですが、その中で明洞大聖堂にも行きました。
韓国はクリスチャンの人たちがとても多く、人口の約3分の1がキリスト教徒です。
明洞聖堂の外にマリア像がありまして、しばらくそこのベンチに座っていたのですが、土曜の早朝にも関わらず次から次へとそこに人々がやって来ました。
そして、一人ひとりがマリア像に向かってしばらく祈りを捧げると、また立ち去っていくという姿を見て、信仰心が本当に日常に根付いているんだなと感じました。
聖堂の中に入ってみると非常に厳かなバイブレーションが漂い、ステンドグラスの美しさも目を見張るものがあり、そこはまさに神の臨在を感じさせられる場所でした。
すでに多くの人たちがそれぞれ祈りを捧げている中、私も祈らせていただきました。
祈りを捧げ、神と向き合い、神とつながる聖堂という場所。
これまでそれが果たしてきた役割というのはとても大きなものがあります。
そして、祈りを捧げた後、聖堂を出てから思ったことがありました。
それは「私たち一人ひとりが聖堂そのものである」ということです。
私たちの肉体というものを一つの建物のようにたとえるのであれば、それはまさに神の愛のエネルギーを宿している聖堂そのものです。
その内側に、心の中に神から分け与えられた命が息づいています。
一人ひとりの存在がそのような尊い愛の現れであり、神の現れです。
どこかに行かなければ神と出会えない、神に思いが届かないというわけでは決してないということです。
それは聖堂に限らず、神社仏閣であってもそうなのです。
別の言い方をするのであれば、一人ひとりが神社仏閣そのものであるということ。
拝むべき神がどこか遠くにいるのではなく、その内側で心を通して大宇宙の神と一人ひとりがつながっているということ。
その神の愛の現れとして、神の表現体として、私たち一人ひとりが聖堂であり神社仏閣であります。
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