神のもとへ向かって
私たち人間は進歩、向上していく存在であります。
進歩とは前へ歩みを進めることであり、向上とは上に向かうことです。
では、「前」とはどこであり、「上」とはどこなのか。
私たちはどこへ向かって進歩し、向上しているのでしょうか。
それは、神のもとへ、であります。
私たちは神のもとへ向かい、神と一体化していくために成長、進化していく道を歩んでいます。
前を歩いている人、後ろを歩いている人
私たちはそれぞれが神の子であり、神の一部として命を分け与えられた存在です。
それぞれに唯一無二なる個性が埋め込まれ、すべての存在が神の現れとして愛で一つにつながっております。
しかし、その愛の発現度合いはそれぞれ異なっているわけであります。
これを「愛の度数」という言い方で表現することもあれば、実在界(あの世)でその人が住んでいる「次元」や、その人が持つ「霊格」という言い方で表現することもあります。
つまり、一人ひとりがかけがえのない存在ではありますけれども、神の子としての進化の度合いには差があり、前を歩いている人もいれば、後ろを歩いている人もいるということです。
神の学校における学年とクラス
これは学校で言えば「学年」があるのと同じであります。
小学校であれば一年生から六年生、中学校や高校であれば一年生から三年生までありますけれども、その学年で学ぶべきことを共に学ぶ人たちが集っていて、それが終われば一つ上に上がっていきますよね。
また、一つの学年の中も見てみれば、いくつかのクラスがありますし、文系や理系、専門分野を学んでいるクラスなどに分かれていることもあります。
それと同じように、私たちは誰もが神の子としてのそれぞれが学びの道を歩んでいるのであります。
その愛の学びにおいて先輩もいれば後輩もいる中で、ステップバイステップで進歩しているわけです。
そのようにして、この大宇宙を創造され、ありとあらゆるものを生かし育まれている神と同じ心、同じ思い、同じスケールになれるように、はるかな道のりではありますけれども、人間は神のもとへ歩んでいるのです。
人は経験から得た学びで大きくなる
草木が伸びていくのに養分が必要なように、人間の成長にも栄養が必要です。
では、私たち人間の成長にとっての養分とは何でしょうか。
それは「経験」です。
人間は人生の中で様々な経験をしますが、それらの経験はすべて成長のための肥料であります。
仕事もそうですし、家事や育児もそうです。
そこでの人間関係や役割、技術、ノウハウなど、ある一定の期間や一日の時間を費やして向き合っているものがあります。
そこから得た学びこそが人間を大きくしていきます。
そうであるならば、どんなに辛い経験であったとしても必ずや肥やしになるということです。
転生輪廻による人生経験の広がり
人生楽しいことばかりではないですよね。
辛いことや悲しいこともたくさんあります。
しかし、それらすべては起きるべくして起き、人間としての磨きをかけていくためのやすりであります。
一回の人生で経験できることなど限られていると言う人もいるかもしれませんけれども、だからこそ私たちは何度も転生輪廻を繰り返し、数え切れないほど数多くの人生を送っているのです。
時代や環境、立場が変われば、自ずと経験することも変わります。
そのように転生輪廻を通して経験の幅を広げ、魂の成長を果たしているのが私たちという存在であります。
人生に無駄なものなど何一つないのです。
向上の土台は努力の持続
向上の道を歩むのに、立ち止まっているだけでは前に進めません。
誰かが魔法のように自分を強くしてくれるわけではありません。
やはりそこには自らの「努力」が必要です。
プロのスポーツ選手であれば、日々の練習や鍛錬を欠かさないからこそ、それまでの自分を乗り越えていく姿があるのではないでしょうか。
そして、それまで出せなかった新たな記録を更新し、限界を超えていくことができる。
その背景には、並々ならぬ努力があるものです。
あなたが今、プロのスポーツ選手でなかったとしても、向上を目指すのであれば、同じことであります。
取り組んでいる仕事においてもそうですし、人格においてもそうです。
努力の歩みを止めない、ということです。
努力の持続が向上の土台には欠かせません。
今日だけは努力するけれども、明日からしばらくは努力しないというような気まぐれなものであっては、いつまで経っても成果に結びつきません。
それは種をまいたら勝手に芽が出るものではなく、継続的な水やりが必要であるのと同じです。
努力は嫌々するものではない
こういうふうに話してくると、努力というものがとても苦しいものであるかのように錯覚する人もいるかもしれませんが、決してそうではありません。
努力は辛いものではありません。
むしろ、楽しいものであります。
努力の中に幸せがあり、充実感があります。
「寝食を忘れる」という言葉もありますけれども、それだけ夢中になって没頭しているときはあっという間に時が過ぎていきますよね。
努力というのは嫌々するものではないのです。
「しなければならない」というものではないのです。
やはり心から求めるものに向かっていくということ。
そのときにあるのは苦痛や面倒さではなく、喜びや楽しみであります。
順境と逆境
人生にはやはり順境のときもあれば逆境のときもあります。
すべてがすべて問題なく思ったようにスムーズに進めば良いけれども、そんなことはないわけです。
順境のときは謙虚にますます力強く歩み、逆境のときは忍耐強く、一歩一歩確実に歩むこと。
それが転落しない秘訣だと思います。
やり切るための忍耐力
進歩、向上の道を歩むのであれば、やはり「忍耐」も欠かせません。
順調に進んでいるときは良いのです。
しかし、簡単に越えられないハードルが現れてきたときに、それに向かい合って取り組まないといけない。
しかも、それが一つのハードルだけではなくて、それをクリアしたと思ったら、障害物競争のようにある程度の間隔を空けてまた次のハードルがやって来る。
そうなってくると、大半の人は途中で耐えられなくなって投げ出してしまうのです。
それらを次々と乗り越えていけるか。
忍耐というのは、つまり、途中で投げ出さずにやり切る力であります。
そのハードルに向き合い、乗り越え、飛び越えていくこと。
その結果として進歩、向上につながります。
挑戦なきところに進化成長なし
人間が退化の道を歩み始めるのはどんなときでしょうか。
それは挑戦をやめたときです。
挑戦なきところに進化なし。
挑戦なきところに成長なし。
すでに達成していることに留まっているだけでは、やはりいけないと思います。
もちろん、それはこれまでの歩みを否定するものではありません。
それまでの積み重ねがあったからこそ、今の進歩、向上があるのは間違いありません。
しかしながら、そこに満足し、安住しているようでは、知らず知らずのうちに停滞し、退化していくことになるのだと言わざるを得ません。
常識にとらわれず新たな可能性を開く
私たち人間神の子に不可能なことはありません。
新たな挑戦を通して、新たな可能性を開いていくということ。
例えば、プロ野球選手の大谷翔平さんは「二刀流」で大活躍をしています。
現代のプロ野球において、先発投手として登板しつつ打撃にも出場するスタイルは非常に稀で、当初は批判や懐疑的な声もありましたが、徐々に成果を出し、アメリカのメジャーリーグに移籍後も数々の輝かしい実績を打ち立てています。
そのように、常識にとらわれず、自分の可能性を信じて挑戦することで新たな可能性が開かれるのです。
失敗はない
挑戦を考えるときに、必ずついて回ると思われているのが失敗というものです。
「失敗したらどうするんだ?」「そんなことは不可能だ」という声が周りから聞こえてくることも多いのではないでしょうか。
確かに挑戦によって必ず成功するのであればいいけれども、そこには失敗のリスクや危険もあるわけです。
しかし、私が思うのは、挑戦した結果、たとえ失敗だと思えるようなことになったとしても大きな学びとして受け取り、糧としていくのであれば、失敗などというものはないということです。
発明王とも呼ばれるエジソンは「私は失敗したことがない。ただ、一万通りのうまくいかない方法を見つけただけだ」と語っています。
無限の進歩に向かって、この心持ちが大切だと思います。
まとめ:人間は神のもとへ歩む存在である
人間神の子の人生とは、「神のもとへ向かう旅路」であります。
その道のりは、愛を学び、魂を磨き、成長し続ける道です。
私たちは一人ひとり、神の子としてこの世に生まれ、経験を通して成長し、努力と忍耐をもって向上し、挑戦を通して新たな可能性を開いていきます。
どんな出来事も、どんな出会いも、すべては成長の養分です。
順境も逆境も、喜びも悲しみも、すべては魂を磨くための学びです。
人間の進歩とは、愛の度数を高め、神と同じ思い、同じスケールへと近づいていく歩みであります。
今日という一日もまた、その永遠の進化の旅の一歩なのです。
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