ブッダの教えに「中道」(ちゅうどう)というものがあります。
それは両極端の考え方や行動に走らないということです。
例えば、「自己肯定」と「自己否定」と言われることがあります。
自己肯定とは、自分の価値を積極的に認めて、自分は素晴らしい存在なのだと評価することです。
そのように思うこと自体はとても良い面がありますし、自己肯定感の高さによって実際に前向きに人生を開き、築いていくことができるのは確かであります。
しかしながら、それが行き過ぎてしまうと過信となっていき、高慢になり自惚れていくことで謙虚さを失い、痛い目に遭ってしまうことがあります。
適度な自己肯定感であればいいわけですけれども、それが極端に行き過ぎると好ましくない結果に陥ってしまうわけです。
また、自己否定というのも同様です。
自分の価値を低く見積るということは、自分より優れた人たちがたくさん存在していることをしっかりと認識できているわけで、自分などまだまだ未熟な存在であるという謙虚な思いがそこにはあります。
だからこそ、もっと努力をし、精進をして伸びていこうという思いが湧いてくる。
それによって成長、進化につながっていく原動力になるわけです。
ところが、この自己否定感というものも行き過ぎると、自分を殺してしまうことになるわけです。
自分など生きている価値もなく、存在している価値もないという思いになれば、本来、唯一無二の個性と役割を神様から与えられて生み出されているのにもかかわらず、それを完全否定することになるわけです。
そのような行き過ぎた自己否定に陥ってしまえば、明らかに弊害しかありません。
神の子としての素晴らしさを全く発揮することができないまま、暗闇に落ち込んでいくようなものであります。
ここで大切になってくるのが中道であり、自己肯定と自己否定の程よい真ん中の道を歩むということなのです。
それによって私たちはどちらの両極端に寄ることなく、神の子として間違いなく、着実に成長、進化していく道を歩んでいけるのだということ。
それが中道というものなのです。
ブッダはある熱心な修行者に対してこのようなことも言われています。
楽器の弦というのは、緩みすぎていても締めすぎていても良い音が出ない。
それは程よく締められていてこそ良い音が出るのである。
行き過ぎた努力は高ぶり、プライドを招き、少な過ぎる努力は怠慢、怠け心を招くものである。
そのように両極端ではない、ちょうど良い努力こそが大事なのであると。
これがまさに中道を説いたものであります、
このように私たちが真っ直ぐに伸びていくための確かな方法論として実践していける道が中道というものなのです。
時代を越えて今でも一人ひとりの人生に応用していける生き方の確かな一つの指針であります。