病になるにはそれだけの原因がある
人が生きている限り、避けて通るのが難しいものの一つが「病」というものではないでしょうか。
それは風邪のような軽いものから、入院や手術が必要な大病まで色々ありますけれども、ある意味では、私たち誰にとっても身近なものが病というものかもしれません。
どんなことにも原因があり結果があるという、原因結果の法則から逃れることは誰にもできません。
それは病気であっても同じであり、その病気になる原因が必ずあります。
それは自分自身で気づける原因もあれば、なぜそのような病気になったのか全く訳が分からないというものもあるかもしれません。
魂の苦しみが病として現象化する
病の多くはどこから来るのかと言うと、自分自身が魂として本来のあるべき生き方ができていないという苦しみから来るのです。
私たちは誰もが神の子であり、光の存在そのものですから、神の子としての愛に反するような生き方をすれば、本来の神の子の姿と自分の実際の思いや行いに溝が生まれて、心の奥深くで苦しむことになります。
自分の表面意識としては何も悪いことなど思ってもいないし、してもいないと思い込んでいたとしても、魂では自分が何をしているのかが分かっていて、それが神の子としての愛にかなっているのかいないのかは潜在意識では魂が知っています。
もし神の子としての本来の自分の姿からかけ離れたことをしているのであれば、それは魂にとっては大きな苦しみに感じられるわけで、心の深いところで自分で自分のしていることを見ているのです。
病というのはその魂としての苦しみを、償いのように肉体に現象化することで、自分自身で苦しむことをもってその罪滅ぼしをしているとも言えるのです。
それは魂としての苦しみを肉体をもって浄化しているとも言えるかもしれません。
肉体に現れる病ももちろん苦しいですけれども、一番苦しんでいるのは魂です。
魂本来の姿とそれに沿っていない自分の思いや行いのギャップが苦しみとなり、病の原因となるのです。
病を通すことで魂が浄化される
人間は神の子であり、神から分けられた光そのものですから、そのような本来の心の持ち方や魂に正直な生き方ができていれば、病になるような原因を作ることはありませんし、自分を罰するような心の思いにもなりません。
神は決して人間を罰するようなことはされませんし、誰かを裁くような思いは全くお持ちでありません。
ただただ愛の思いですべてを温かく見守り、生かし育まれているのが神のお姿です。
裁いているのは私たち自身であり、自分で自分を裁いているのです。
そのような自己否定的な意識が肉体に反映されて、現象化し、現れてくるのが病というものです。
もちろん、過去世におけるカルマを刈り取るために病を計画して生まれてくることもありますから、今世だけで作った原因がすべてではありませんけれども、その肉体的な苦しみを通して魂は浄化をされていきます。
病になることで、魂の苦しみを晴らして魂がきれいになっていくという、ある意味で、そういうありがたい側面も病にはあります。
神の子の心に正直に生きれば、病で苦しむことはなくなる
誰だって病になりたいなんていう人はいませんよね。
ちょっと熱が出て寝込んでいるだけであっても、どれだけ健康がありがたいのかを私たちは思い知らされるのではないでしょうか。
魂には病というものはありませんし、あの世には病院もありません。
魂というのは完全な光であり、病気になるようなことはありません。
その光を自らの自由意志で曇らせてしまうようなことがあったとしても、病を通してその魂の澱みのようなものが晴らされていけば、またきれいな丸い魂としてピカピカ光り輝くようになります。
神の子としてどう生きるべきなのかを心の奥では知っているのに、それにふたをして、見て見ぬふりをして、気づかないふりをして自分自身をごまかそうとするから苦しむのです。
神の子としての心に正直に、愛をもって、優しさをもって生きる。
それを心がけて生きていけば、病で苦しむようなことはなくなっていきます。