私たちは本質的に何者なのか
人間の最も大きな幸福感の一つは、自分という存在が本質的に何者であるかに気づいたときに生まれるのではないでしょうか。
それは自分はこういうタイプの人間であるとか、他人からこう評価されているとか、「あなたはこういう人だよね」と誰かから言われるとか、そういうことではありません。
そういうものがすべてなくなっても、最後に残るものがあるのです。
例えば、肉体もそうですが、肉体が焼かれても残るものがあります。
それは確かに骨も残るかもしれませんが(笑)、私たちは骨ではなくて、人によっては肉体が自分自身だと思い込んでいる人もいるかもしれませんけれども、肉体がなくなっても最後に残るものがあって、それが自分自身という存在です。
自分自身という存在が消滅するようなことはありません。
最後まで消え去らないで残るもの
その消え去らないものが意識や心、魂とも言われるものです。
それらは同じものをそれぞれ別の言葉で言い表しているだけであって、別々のものではないのです。
意識を目に見える形で示すこともできないですし、心を物体のようにして差し出すこともできません。
心臓というのは身体中に血液を送り出し、戻ってきた血液を受け入れる役割を果たしてますけれども、それは肉体の一つの器官であり、心ではありません。
日頃、「思う」とか「考える」ことをしているのは誰でしょうか。
それが自分ですよね。
それは物質的な肉体が思ったり考えたりしているのではなく、自分自身が自由に思い、自由に考えているのではないでしょうか。
それは「我思う、故に我あり」とデカルトが言われた通りです。
私たちが本質的に何者なのかと追求していったときに最終的にたどり着くのが、意識や心、魂というものなのです。
肉体は車のようなもの
車に乗る人も多いと思いますが、私たちの肉体というのは車のようなものなのです。
車というのは中に入って誰かがエンジンをかけて運転しないと動きませんよね。
車の行き先を考えているのは中に乗っている人であり、そこに向かってアクセルを踏んだり、ブレーキを踏んだりしながら車体を操作して目的地に向かい、到着したら車から出ていきます。
それと同じで、私たちは肉体に入って人生という道を進み、たまには寄り道などもしながら生きているわけですけれども、最後は寿命に到達したら肉体を出ていきます。
その肉体の中に入っているものが私たちという存在であり、それが魂と言われるものなのです。
魂という言葉が受け入れにくければ、心や意識と言ってもいいです。
それこそが私たち自身の姿であり、自由に思うことや考えることができて、いっときこの物質的な肉体に入っているけれども、肉体の寿命が来ればそこから抜け出して、消滅することなく存在し続けているもの。
そのような永遠の命というものを持っているのが私たちという存在であります。
肉体を離れれば魂たちが住んでいる世界、すなわち、あの世と呼ばれる世界に帰っていき、そこでまたあの世での生活を始めるわけです。
そのように、私たちは本質的に霊的な存在なのです。
人間は人生の様々な機会の中でだんだんと精神的に目覚めていく
この物質的な世界に生きていると、そのようなことに気づかないまま時が過ぎていくことも多いかもしれません。
しかし、最初からそれに気づいた状態で生まれてくる人は一人もおりません。
みんなゼロからのスタートであり、赤ちゃんや小さい子どもなどは霊的な意識をだいぶ保っている人も多いですが、それでもやはり成長していく中で物質的な意識のほうが強くなっていくものです。
その中で、やはり人生の様々な機会の中で「人間とは何だろう」、「人生とは何だろう」、「なぜ人は生まれてきて死んでいくのだろう」といったような疑問を抱いたり、それに関連するような本を読んだり、人から話を聞いたりしながら、だんだんと精神的なことに目覚めていくというプロセスをたどることが多いのではないかと思います。
どんな人にも精神的な目覚めの機会は用意されているのです。
それに気づいていったときに一つの謎が解けていくように「ああ、そうだったのか。そうなんだ。そうだよね」という大きな喜びとともに、それが徐々に確信へと変わっていきます。
それは一気に確信に変わるというよりかは、ワインが時間をかけてゆっくりと発酵していくように、だんだんと認識が変化していき、強化されて、揺るぎない確信へと変わっていくものなのです。