愛を学ぶために
愛とは何でしょうか。
それは「無心に与えるもの」であり、「赦し」であるとも申しました。
愛というものは奥が深く、私たちがこの地上に生まれてくる目的というのは、「愛を学ぶため」でもあります。
愛が何であり、具体的に肉体を持って生きる中で、どんな愛を表現することができるか。
それが私たちには最も問われているのです。
この宇宙において愛の摂理に反するものは存在ができない
私たち人間は、その本質が愛であり、愛のエネルギーそのものから命を分け与えられている存在です。
この宇宙において、愛の摂理に反するものは存在することができないという原理があるのです。
ともに愛し合うことができなければ、宇宙の中で存在することが許されなくなってくるのが事実なのです。
愛の反対は自分さえよければいいというエゴや独占欲
愛というのは「分かち合い」でもあります。
たとえば、今の世の中において、世界のある地域では食べる物がなくて飢えている子供たちがいる一方で、余った食べ物を次から次へと廃棄している国もあります。
フードロスと言われる問題があるわけですけれども、全世界的に見て食料が足りないわけではないのです。
余っているところがあるのであれば、足りないところへ分けていく。
そのような分かち合いの精神があれば、飢えという問題で苦しむ人たちはもっと減っていくことでしょう。
愛の反対はエゴであります。
それは自分さえよければいいという思いです。
人がどうなろうと自分の立場や地位さえ守られればそれで構わないという思いです。
そのような独占欲というものは愛とはかけ離れたものであり、私たち神の子としての本来持つべき自然な思いではないのです。
喜びや悲しみも分かち合う
分かち合いというのは、何も食料や物だけではなく、喜びや悲しみ、苦しみというものもそうです。
一日を終えて、その日にあった幸せなことを家族と共有することも分かち合いです。
悲しい出来事があったのならば、その悲しみを分かち合って互いに支え合うこともできます。
その苦しみに寄り添って、相手の苦しみが少しでも楽になるようにしてさしあげる。
あなたは一人じゃないんだよといたわりの言葉をかけてあげる。
心の負担を分かち合うことで、救われることも多いのです。
愛とは、そのように人の苦しみや辛さを減らすことでもあります。
手を差し伸べていく思いと行いが愛そのものなのです。