真善美が人には備わっている

真善美というものがあります。

私たち人間には、真善美というものがあり、それらが一体となって内在しています。人間の内にある、この真善美を輝かすために私たちの人生があるとも言えるのです。

真とは、真実のことです。
私たちが何者であり、なぜ生きているのか。
私たちは誰によって生み出されたのか。
その答えを、真実を求めるように人間はつくられており、そのような答えを求め続けていった先に、人は神と出会うことになります。

神そのものが何であり、この大宇宙の法則、神理が何であるか。

神の御心がどのようなものであり、神の思いがどのようなものなのか。

神の思いに沿った、神の子としての、宇宙の法則に則った生き方とは何なのか。

真実を求めるということは、言いかえれば、神を求めるということです。なぜなら、自らが何者であり、この宇宙はなぜ存在しているのかという真実を求めているうちに、誰もが必ず神にたどり着くからです。

神とは、この大宇宙のあらゆるものをつくり出された愛のエネルギーです。

私たちは神そのものである愛のエネルギーから分けられ、存在しています。神の一部として存在しているから神の子と言われますが、私たち人間だけはなく、動物も植物も、鉱物も、この宇宙に存在しているあらゆるものが神の子であり、愛のエネルギーでつながっている存在なのです。

それでは、神の子として、神の一部として生きている私たちにとっての善とは何でしょうか。

善とは神の子たちが互いに愛し合うことです。みんなで生かし合い、分かち合い、赦し合い、育み合うことです。それは神の子としての行動基準とも言えるかもしれません。

一人で何かを独占し、人を裁き、自分だけが良ければいい、という考えではなく、互いに幸せになっていくために自分にはどのようなことができるか。

そのような愛の思いで、他の神の子たちのために生きようとすること。それが善であり、善とはこの宇宙の中で大調和を生み出していく原動力になっていくものです。

そのための行いというものは、結果として、美しくなっていきます。
神の子としての愛の思いが具体的な言動、仕草、生き方、生き様、身に着ける衣服などに表れたとき、それらは美しいものとなっていくのです。

自分を良く見せるためだけの行いには、本当の美しさというものは宿りません。愛の思いに基づいたものでなければ、上辺だけはいっとき美しく見えたとしても、やがては化けの皮がはがれるように、醜さというものを露呈してしまうのです。

美とは愛の表現形です。

私たちがこの大宇宙の神によって生み出された存在であり、神の子たちと互いに愛し合っていく中において、そこに結果的に美しさが表れてくるのです。

他の神の子たちに語りかける言葉や立ち居振る舞いというものが、愛の思いの結晶として、色とりどりに輝く宝石のようにキラキラと光るのです。その光というものが美しさとして発揮されるのです。そのような人生というものこそ、美しい人生だと言えるのではないでしょうか。

真善美というのは、このように全てが連動し、私たち神の子の根底に流れ、備わっているものなのです。