「恐怖心」はどこからやって来るのでしょう?
たとえば、自分の立場や地位が脅かされるのではないかという恐怖心。
失敗や間違いをして怒られるのではないかという恐怖心。
極端な例かもしれませんが、自分が殺されるのではないかという恐怖心。
それらは所有しているものを失うことや自分が傷つくこと、後ろ指をさされること、評判を落とすことから来る恐怖心ではないでしょうか。
天国に恐怖心はありません。
天国にあるのは希望であり、信頼であり、愛であり、赦しです。
神の世界に恐怖心はないのです。
恐怖や不安を煽るのは地獄的であり、本来、私たちは恐怖心を持つ必要はなくて、もし何か恐怖心を持ったとしたら、それは自己保存や自己保身の気持ちから出てきているものです。
恐怖心が生まれた時に「自分は何を恐れているんだろう?」と考えてみると、恐れるべきことなど本当は何もないのです。
失ったところで神の子として困るものなど本当は何もなくて、自分が抱えている様々なものを守るためにウソをついたり、他者を攻撃したり、責任転嫁をしたりするほうが、よほど神の子としては恐れるべきことではないでしょうか。
恐怖心は、別の言い方をすれば自分が握っていて離せないものであり、執着から生まれます。
死んでも命が終わるわけではなく肉体から離れてあの世に帰るだけなのですから、極論かもしれませんけれども、自分の肉体の命でさえ執着する必要はないと私などは思っています。
すべての執着を一つずつ手放していけば、恐怖心もなくなっていくものなのです。